さよーならまたいつか!

 2024年も無事、というのかわからないが無事終わった。人が振り返りをブログに残しているのを見ていいな、と思ったので残しておきたいと思う。

 

障害者として生きる

 障害者手帳を2023年に取得して、3月からB型作業所に通い始めた。

 作業は好きな単純作業だし、基本的に楽しい。最近はハンドクラフトをやらされて結構苦労することも多いが、久々に「わからないことを、諦めたいことをやり遂げるってこんな感じだったな」と思いながらやっている。

 周りの利用者さんを見て、というか初めて自分と同じような立場の人たちに囲まれて、みんなの穏やかさに驚く。ある意味で普通の人よりも達観した人が多いのだろうな、と勝手に思っている。

 母は嫌がったが、担当の相談員さんもついた。

 相談員さんのボスに会ったとき、「あなたならなんでもできるわ!」と言われ、「あなたは話したくなっちゃう雰囲気がある」と、ボス自身も統合失調症の母を抱えていたことを話してくれた。その後、他の相談員さんが担当となり最初はもどかしかったことも多かったが、最近ではかなりのびのびと話ができ、向こうも私という人間を見て話してくれる。ありがたい。大阪への移住についても真剣に取り合ってくれたし、「みあさんなら接客だってなんだって仕事ができる」と言ってもらえている。

 

 障害者になるというのは不自由が増えることだと思っていた。でもたくさんの人が私をバックアップしてくれるし、障害者になれば単調な人生を送らなきゃいけない、と思っていたが、いろんなことを諦めなくていいことを知った。

 ただ同時に、すごく安心してしまったことで「我が家は支援が必要な家だった」ということに気付かされたり、政府からの助成金で成り立つ福祉業界の闇も感じてしまってはいる。私には必要な支援だけど、これは受けなくて済むなら、受けないほうがいい支援の世界だとは思った。

 

ロリータを辞めた

 あんなに偏愛して、一生やめる気のなかったロリータを辞めた。

 きっかけはお金ないからちょっと売ろうかな、とかいう気軽な気持ちだったが、辞めてしまおうという結論に達した。

 SNSを見れば、年齢不詳のロリータさんがたくさんいる。その反面、やっぱり年齢には逆らえていないロリータさんのほうがずっと多い。

 可愛い服を着たい。でも、可愛い服から年齢を重ねた自分が浮いているとしたら、それは私の本望ではない。それはやっぱり「イタイ」と思ってしまう。私はそういう「イタイ」ロリータさんたちに憧れられなかった。

 私はまだBABYのお洋服が大好き。でも、似合うのはPisycal Dropのお洋服になってきている。そのギャップにモヤモヤが溜まり、着る気が起きなくなったのである。

 

 ただ、最後に素敵な出会いがあった。メルカリで売っていたところ、以前も購入してくれた方が「みあさんのセンスが好きなのでできる限り買いたい」と言ってくださり、購入ページがロリータ談義で盛り上がった。ちょっとした話のきっかけで「一度ロリータをキッパリやめて、今後も着るか考えようと思っている」と言うと、「とても寂しいですがその考え方も素敵です。いつか戻ってきてくださいね。」と言われて、とてもいい餞になった。この方のおかげで、なんの未練もなくロリータを辞められたと思う。

 

お金持ちとの付き合い

 ひょんなきっかけでお金持ちとの付き合いが増えた。それによって甘い汁を吸う反面、振り回され、うんざりした一年だったと思う。

 ただこれのおかげで「名古屋を出よう、というより、今出なければ人生を食われる」と実感して、名古屋を出る気になったし、パーティーのたびに料理の腕を磨いていっぱい褒められたので、この負の出会いを踏み台にしたい、華麗に大阪に飛び立とうと思っている

 

手紙でいっぱいの一年

そのお金持ちがきっかけではあるが、手紙をよく書いた一年だった。この時代には逆行してるとは思うが、手紙はやっぱりいい。

 叔父が亡くなった16年くらい前からポツポツとたまに手紙を出していた叔母に、2023年の北海道への帰省で会えたのをきっかけに「やっぱりこの人が好きだな」と思い、今年から手紙を出してみた。そしたらえらく喜んでくれて、数ヶ月おきに手紙を出している。

 なんとなく祖母たちにも月に2回、「あなたを忘れてないよ」と思ってもらうためにだしたのをきっかけに習慣にしている。コメントがないので喜んでいるかはわからないが・・・

 そして久々に高校時代の担任にLINEしたところ、「君は世界の全てを味わう力がある」と言ってもらえて、やっぱりこの先生と議論を共有したい!と思い、文通することになった。一度出したら思ったより本気の議論が来てびびってまだ返事を出していない。申し訳なくて早く書きたい。

 

 手紙というアナログなものが、私の世界を繋げ、広げてくれたのだ。

 

友達と、旅と。

 今年は大阪と福岡から親友が来てくれた。どちらも我が家に滞在して、片方はジブリパーク、もう1人は名古屋観光を楽しんだ。

 1人は高校時代からの親友で、もう1人は30手前で出会った親友。昔からの親友と、まさか大人になってこんな親友ができるなんて!というこの2人が来てくれてとても嬉しかった。そして、いつも私のLINEの相手をしてくれる北海道の愛しい親友たち。「いざとなれば僕と結婚しなよ」と言ってくれるLGBTQの若い友人。みんな私を囲む、大事でありがたい友だ。

 

 そして祖母と長崎にも行った。慣れた祖母との旅なので気楽なものだが、久々の知らない土地への旅は、とても楽しく刺激的だった。

 あの知らない土地に自分という異物がいる違和感。その土地の感覚が味わえた瞬間。旅の醍醐味だ。

 そして何より、祖母が喜んでくれたのが嬉しい。この歳になって祖母とこんな旅ができるなんて思わなかった。

 

クリスマスツリーを手に入れた!

 文字通り、クリスマスツリーを手に入れた。ツリー本体はちょっとケチったので多少の不満はあったけれど、オーナメントにはかなりこだわってイギリスから取り寄せたものもあったり(それができる英語力がまだあることに安心した)、父にハワイで買ってきてもらったものもあったり。とりあえずAmazonで中国製の怪しいものを買いたくない、発がん性物質とか怖いし、と思い、個人輸入したもの以外は日本で売っているものに縛って買ったので結構赤字になりましたが後悔はない!

 個人的には妹が司法試験に受かったので、2024年のイヤーオーナメントにこだわって買った。やっぱり大事な思い出なので。

 

私の生き方

 今年はお金持ちとの付き合いが多くて、かなり「身の丈」や「お金の使い道」について考えさせられた年だった。結論として、私は高級なものはあまりいらない、というのがわかった。

 

 エスプリの効いた、ちょっと高い何か、は好きだが、基本的に自分に高いものは必要ないのだ。服は汚すから高いものはムダになる。高級は大きな宝石は身の丈に余る。

 そのくらいならKate Spadeのポップなイミテーションアクセサリー。適度な値段の可愛いバッグ。どうせ朽ちるのだから。

 

 でもその反面、このお金をかけたクリスマスツリーのような、ムダなものを愛している。人から見ればムダなもの、その余裕こそが私の愛する消費活動なのだと思う。

 あとは旅行とかライブとか、コト消費。自分の身につくというか、染み込むものが好きだ。実は福岡の親友から「ギリシャとトルコ、興味ない?」と海外旅行のお誘いがかかっている。父親と行けなくなったからもうろくに海外には行けないだろう、と諦めていた私にとって朗報だった。海外に行ける方法が、しかもそれが親友と行けるなんて!

 

 いろいろなことに悩まされた一年だった。毎年、「今年こそ平穏な一年だといいな」と思いながら、結局平穏とはかけ離れた人生。それが私の人生なのだろうとなんとなく納得できる年齢になってきた。でもいまだに「今年このあとどこに行くかわかんないから書けないな・・・」とスケジュール帳の住所欄が書けないことに、もはや笑ってしまう。

 

 2025年の目標は、とにかく大阪に帰ること。来週来る父親に、少し具体的な話をするつもりだ。そしてちょっと渋々ではあるが、紹介での病院の受診と、治療。

 今年も大変な年になりそうだ。でも私は「人が宣う地獄の先にこそ わたしは春を見る」のだから。

 

このムダの素晴らしさよ。

 

 

その先に

 妹が司法試験に受かった。

 嬉しいとともに、なんだか遠い存在になるくらい頑張ったのだな、とちょっと哀しい。呪いのような、愛の重い手紙を書いてしまった。

 

 ということで、妹の希望で大阪時代の地元行きつけのイタリアンでお祝いだ、と祖母も連れて、祖母の友達も来てお祝い弾丸旅をした。ただいま、と新大阪に近づくだけで自然につぶやいてしまう。

 

 食事中、妹の赴任地について話して、大阪にしなよ、とかしたいんだけど彼氏との約束が・・・なんて話していた。そしたら祖母が、「今日はお祝いなんだからその話はまた今度ね」と言った。

 なんでかわからないけど、その瞬間「名古屋にいるのはしんどいねん」と涙が出てきた。

 

 大阪に来ると必死で目を逸らす、黒い感情。自分がここに住んでいない、帰りたいと思っている現実。

 

 さすがにあの言葉に傷ついたし、妹もホテルに戻ってから「あれはない」と怒っていた。

 でも悶々とした私は、午前5時に衝動的にホテルを出た。

 

 いつも夜中に散歩していた道を行き、そこからなぜか「京都にも戻らなあかん、行かなあかん」と思い阪急に乗った。阪急電車が駅に滑り込んでくるだけで、安心して涙が出た。

 結局睡眠導入剤を飲んだ後だったので、京都まで行けないと断念し、茨木市で降りて梅田に。阪急京都線の出発チャイムが聴きたい気がしたが、それを聴いたら核心に触れてしまう気がして、逃げるように谷町線へ移動した。そして地元の駅に着いたら、いつものうどん屋さんで肉うどんを食べた。

 

 出汁が美味しかった。そしてそのしみじみと温かく、愛おしくなる気持ちで気づいてしまった。関西の出汁を故郷の味、と愛おしむのに、名古屋の出汁は美味しいと思っても、帰ってきた、愛おしいなんて思わないことに。

 

 ずっと歩いているなか、腹を立てていた。ここに実家が、帰る場所がないことに。

 そしてばかみたいだけど、名古屋でお揚げを買うことに。

 

 名古屋のあげはふかふかで空洞が多く、小さい真四角。あれには驚いた。私にとってのお揚げは、長い京揚げが当たり前だったから。

 なんとなく分かってはいた。私はその名古屋の揚げを手に取って買うたびに、なんで名古屋におってこんなもん買わなあかんの、なんで私は関西におらんの、と屈辱を感じていたこと。

 

 でも祖母の一言が、そっと隠していた、見て見ぬ振りをしていた感情を明確にさせた。

 大阪に帰りたいと、名古屋にいるのがしんどいと思っている自分の気持ちに。

 

 用事があって大阪に帰るたびに、真っ黒い感情に飲まれないように必死だった。

 みんぱくに行きたいけど、行ったらここに住んでいない現実を目の当たりにする。。。そんな場所がいっぱいあった。

 毎回、大阪に帰りたいという感情が露わにならないよう、逃げるように名古屋に戻った。

 今考えれば、それがもうおかしかったのだ。

 

 妹に言われた。「姉ちゃん、名古屋に来てどんどん険しくなってる。言葉もきつい言葉使うようになった」と。

 母のこと、知り合い間のトラブルのこともあるが、やっぱり根本的に私は名古屋が合わないのだろう。私はこの土地を愛せない。この土地では生き生きと生きられない。

 

 とらつばのセリフであった。「私の地獄を生きる」。だとしたら、私が生きる地獄は大阪にあるのだろう。

 妹と話し、「来年中には大阪に戻ることを目標にしようと思う」と伝えた。

 「友人が障害者手帳持ったから、大阪市の手帳の福祉について今度聞いてみる。最初の赴任地が大阪になるようにしようかな。修習じゃなくて赴任地なら、4年いれるし」ということを言ってくれた。

 「私も大阪に住んでる夢、いまだに見るよ。で、起きたらなんで自分は大阪にいないんだろうって、一歩間違うと真っ黒い感情になるの」、妹も同じだったのかもしれない。

 

 母は怒るだろう。「あなたは名古屋の人間だ」といつも怒るから。でも私たち姉妹の生きた、生きている道には、はっきりと大阪があるのだ。

 

 帰ろう、大阪に。

 大っぴらに言ったら道を絶たれるから、ここで小さく、でもはっきりと宣言します。

 絶対帰る。私は私の地獄を生きる。

 

 

See you again

 ブログに記録しておきたいことがある、そんな気分。

 ただ、やりたい!しよう!という気持ちとは裏腹に、夏風邪だと思っていたのがコロナだったのか、体力がごそっと減って目眩も多くなり、イマイチ動けていない。よくない。

 

 バカみたいな話だけど、ジェシーの熱愛から、なぜか人生最大の断捨離が始まった。

 最初は軽い気持ちでジェシー彼女いるなら、グッズ見てかっこいー!とか言ってらんないね、売るか。と思ったのだ。ここでこういうことを言うと「そんなの本当のファンじゃない」とか、「付き合えると思ってたの?」とか言ってくる人いるけど、どちらも違う。その辺は人ごとに違うのだからそういうこと言わないでほしい。私個人としては、彼女がいる熱愛報道が出た時点で、ブロマイドのようなグッズは処分する、と決めているし、担当が熱愛や結婚を出したら担当降りるだろう。それは彼らがアイドルという職業だからだ。アイドルは夢を見さす立場。それを向こうが終わらせる決心なりしたのなら、こちらも終わらせる。ただそれだけのことである。だって舘ひろしが同じことしたって、舘ひろしならこっちの気持ち変わるわけじゃないもん。

 

 と、ずいぶん話が逸れたが、ジェシーのものを売るついでに送料無料になるように20点以上のグッズを売りたいな、と思っていたら、なんか気持ちがスッとなり、ジャニーズグッズがこれもいらない、あれもいらない、となった。もとからそんなにグッズを買う人間ではなかったのだが、特典とかなんだとかで結構グッズが溜まってたし、CDも溜め込んでてもDVD見ないしな、と見切りをつけて結構売った。

 

 そしたらなんだか、本棚の1番上にある切り抜きファイルが圧迫感がありうざったく感じて、「ここにぬいぐるみ入れよう」と本棚一段分本を減らした。

 そこからあれよあれよという間に、

「この収納箱うざい。減らそう」

「このママの入れた巨大な収納コンテナ邪魔。コンテナごと中身減らそう」

「押入れの下の収納コンテナにしかモノ入れたくない。中身減らそう」

「押入れの上の段、ぬいぐるみ広場にしよう。だってオットマンにぬいぐるみいるのうざい。でもぬいは減らせない」

「可愛い帽子箱も置き場ないね。床置きたくないし。減らそう」

「テレビ上過ぎで邪魔。下の物入れ減らして下にずらそう」

みたいな感じで捨てまくった。管理人さんが歳で重いものがつらいので小さいゴミ袋で極力出したからもあるが、捨てたゴミ袋はゆうに20袋を越していた。30以上かも。

 

 その中でも本は捨てられなかった。

 誰かがTwitterで発言していた「本棚を見ていてまだ読んでいない本があると、まだ私の知らない知識がこの世にはあるって思い知らされる。それも悪くない」って言葉が素敵だと思ったし、なんとなく本は捨てられなかった。

 

 が、先日の九州の地震南海トラフがと言われたとき、「この本棚に私とおはぎは殺されるかもしれない」と恐怖を感じて本棚を倒した。そして本を捨てよう、この本棚はダメだ。と、300冊の本を処分した。

 正直、そんなにいらない本があったことにびっくり!確かに断捨離提唱者のやましたひでこさんも本と執着について語っていたが、いると思っていた本のほとんどは「こんな自分になりたい」という気持ちと過去の遺物だった。

 

 その後も1ヶ月くらい、やましたひでこさんのYouTubeでモノへの執着とかを学んで、ちょこちょこ捨て続けた。

 

 そうしたら押入れの上の段はゆったりとしたぬいぐるみ王国となり、本棚は一つ、それでも余るくらいになり(文庫本やCD、DVDを入れた小さい本棚2つは除く)、元々本棚があったところにチェストを置いて、部屋がスッキリした。

 チェストの中も押入れの収納の中も、分類分けや量の加減的に分けているけど、どこもゆとりがかなりあるぐらいになった。靴も冠婚葬祭などの非日常モノを別にしたら普段履くのは3足に減らせたし、クローゼットもゆとりのある並びになった。バッグはなかなか捨てられないんだけど。。。

 

 捨てるものなんて一切ない、と豪語していた私がこんなに捨てて、部屋をスッキリさせられたなんて!

 

 そして部屋をスッキリさせたことで、思考が回ってきた。なんというか、新しいことを考える余裕ができたのである。

 断捨離のこの手の話は信じてなかったのだが、実際やってみると確かにある、と感じて唸ってしまう。まあ今の環境に考えることがあるからだけど、今の私は新しいフェーズを求めて動こうとしている、と感じる。

 

 モノは使うためにある、確かに。でも愛でるだけになっても愛でるだけでときめくものは必要だから、と大掛かりな断捨離は拒否してきた。

 でも、愛でるだけ物が大量にあっても、全てを可愛がれてるだろうか?

 本当にときめくモノはどれ?とこんまりさんのときめく片付けも混ぜて断捨離したのが余計によかったと思う。

 また、やましたひでこさんの「気の抜けた服は賞味期限が切れた服。だから着ても楽しくないなら捨てる」はすごい納得できた。

 

 ときめかないなら捨てる。戦争を生きてきた人からすれば信じられない生活だろう。でも現代の生活では、いるかいらないかの取捨選択をしないとあっという間にモノに埋もれて、どれが大切かわからなくなる。

 モノであれ、コンテンツであれ、人であれ、そういう時代になったのだと思う。だから私は、時に断捨離は必要なことだと思う。

 特に若いうちに堆積したモノに埋もれて思考停止するのはよくない、モノもコトも流動的に考えて人生を動かさねば、と実感した。

 

 次なる断捨離は写真とパソコン。

 紙焼きの写真は生まれた時から10歳くらいまで。

 データで言うと写真や曲が13歳から今まで、約18年のデータが溜まり込んでいるわけである。ありがたいことに?私の時代はよくデータが飛んでたから、今の子みたいなデータ量ではないが、それでも多いと思う。写真データでいうと約4万5千枚、曲数は1万2千曲くらいあるだろう。

 iPadでできることが広がり、まあ将来的にパソコンを持つメリットやコストに必要性を感じなくなってきたので、これらを整理したら母にパソコンを譲るつもりだ。ついでにこれを機にiPodという化石遣いから、iPhoneで曲を聴く新人類になろうと思う。

 

 

 とりあえず断捨離って確かに人生動かすわ。。。と実感した人間の記録

 かつて梅棹忠夫は博物館を「死体の重なる墓」みたいなことを言っていました。たまにモノに溢れる人間の家を「博物館みたい」という嫌味がありますが、私たちはまだ生きているので、流動的に人生を送っているので、家を、自分の部屋を、博物館のような死体重なる墓にしてはいけないのです。

 

母はこのポップなパソコンを受け入れられるのか(姉妹での落書き付き)

 

NEW LOOK

 初のBluetoothキーボードとiPadからの投稿。うまくいくでしょうか。すでに文字のフォントが違う気がする。初心者よ気にするな。

 

 もう6月の終わりの話になるが、SexyZone、もといTimeleszのライブに行ってきた。

 思わず最初の曲から泣いてしまった。自分でもセクゾにそんなに思い入れがあるとは思っていなかったのでびっくりしたが、彼らのエンターテイナーぶりがそんな感動を引き起こしたのかもしれないし、セクゾの聰ちゃんは適応障害で活動休止後カムバックしたり、グループ自体の不遇さを自身に重ねて感極まったり、自分の中にいろんな気持ちがあったのかもしれない。

 

 ただ、このライブは他にもびっくりしたことがある。自分が「普通の女の子」としてライブを楽しんでいられたのだ。

 私はジャニーズのライブを楽しむ反面、いつも気合の入れ直しをしていた。「この人たちみたいに特別な人間にならねば。何かに秀でなければ」と自分に圧をかけていたのだ。

 人からすれば馬鹿みたいだろう。テレビの向こう側にいる人間に並ぼうとするなんて。でも本気だった。なぜなら私は、親に、特に父親からは何かに秀でることを望まれていたから。

 

 小学生時代、宿題をサボっていると母に怒鳴られた。「そんなことしてたら公園でレイプされるだけの女になるのよ!」と。

 中堅より少し下の大学に入ったときには父に「せいぜい中小企業のOLにしかなれないじゃないか」と言われた。

 他の言葉は割愛するがつまり私は、両親によって「人より秀でた存在になれ」と圧をかけられて生きてきた。だから何者かにならなきゃいけない、と思って生きてきた。いつも追われてあっぷあっぷしてた。

 それは結果として人生の挫折と病気になり返ってきて、私は齢31にして、初めて「人生は何者にもならなくていい」という答えを出せた。答えを出せたときには、もういろんなものが手遅れになっていたとも感じているが。

 

 おかげで、初めてジャニーズのライブを心から「見る側」として楽しめた気がする。バカみたいな話だけど。

 

 しかしまあちょっとお金持ちに振り回されて「この土地にいたくない、お付き合いしたくない」と結構最近は追い詰められている感がある。

 なので、その方と関係ない人に会うとすぐその愚痴と相談をしてしまうのだが、裕福な人ほど「その方はみあちゃんを気に入ってるの、教えてくださるのはありがたいこと」とか言ってこられてしまう。でも私は進化したので、その教えというのが金持ちの戯言であることに気づいてしまっている。

 

 その「ありがたいこと」と言った人もまた裕福な家の奥さんだが、この人は極度の真面目さんでもある。それが嫌いなわけじゃないが、笑ってしまうことやそりゃ違うだろ!と思うことは多々ある。

 

 母の友人なので各々の子供の話になったとき「まあ私はいうならば、親の失敗作なんでね⭐︎」と茶化し気味に言ったら「人生の自分の失敗を、全て親のせいにしているの?」と真顔で言われてしまった。

 私はえぇー?と思うと同時に、そのあとちょっと笑ってしまった。この人は恵まれた人生を、正しく送れてきたんだな、と。

 

 この人は「子供たちは自分で人生を決めている、だから自己責任なのよ」と言っていた。

 でも果たしてそうだろうか?私からすれば答えはノーだ。

 

 あくまで私が人生で感じてきたことであるが、本人の決定や努力なんていうのは、その決定と結果の3割にも満たないだろう。1割あるかどうかだと私は思う。

 では何が人生を左右するか。本人を取り巻く環境である。数年前、東大の入学式で上野千鶴子が似たようなことを言っていたと思うが。

 私の見る限り、エリートになる子は、そうなるように育てられて、環境を用意されている。エリートになりかけでなれなかった子は、家庭環境などで脱落していった。

 

 そもそも、自分のことしか考えずに何かを決めるなんてこと、大抵の人はできない。こどもを捨てて男に走ったなんていうことが驚かれるのは、自分の気持ちのみでその行動を起こす非常識さだと思う。

 ほとんどの人間は親、兄弟、友人といった人々に左右され、何かを決めていく。子どもならなおさら、親の影響を強く受けるだろう。

 

 それをこの人は「子供の責任」で片付けちゃうんだな。。。と結構びっくりしたものです。そう思える環境って、子どもからしたらつらいだろうけど、親としては楽なのかな?と疑問に思った。

 

 書き残したいことが多少ある。次回、断捨離編でお会いしましょう。

 

 

 

分別奮闘記

 キャサリン妃がガンを公表したらしい。そんなニュースと、叔父がガンで亡くなったときに「叔父夫婦の歌だな」と思ったBUMP OF CHICKENの飴玉の唄の歌詞を上げているフォロワーがいて、なんとなくもの悲しい気持ちになって、久々のブログに手が伸びた。

 この「飴玉の唄」は私にとって命の歌みたいなもので、人間の死や別れへの恐怖心、依存心をよく表現しているなと思う。希死念慮がひどいときや、白血病の疑いがあった時期はよく聴いていた。逆にいうと、何かがなければ聴けない、箱の中に閉じ込めておく曲。

 

 叔父の死は、私の人生においてけっこうショッキングなことにいまだランクインする。べつに叔父と親しかったわけではないし、叔父は人に好かれるが、その反面人の気持ちを平気で無碍にする、薄情で無惨な人だったと思っている。叔父は早く死んだから、伝説となり人からいまだ愛されるのだ。

 

 でも、叔母の愛は本物だったと思う。

 皆が急な葬式に慌てふためくなか、中学生で何もすることがない私は、家で使っていた布団に寝かされた叔父をひたすら眺めていた。ああ死んだのか、と変にしっくりして、しかし現実味がなかった。

 そこにふと手の空いた叔母が現れて「寝てるみたいでしょ?」と普通に話しかけてきた。泣き続けて声も出なくなった祖母とは違い、叔母はときに笑顔も見せながら、喪主としてするべきことをこなしていた。でもそのとき、叔父の頬を撫でながら「ねえ、寝過ぎだよ、起きてよ、ねえ」と泣きはじめたのである。

 

 本当に一瞬の出来事。

 誰も気にしていなかった。だれも寄ってこなかった。叔父の遺体と叔母と一緒に、異空間に閉じ込められたのかと思った。

 

 そのあとあまりはっきり覚えていないが、叔母は持ち直して去っていったと思う。

 でも、その日その公民館に泊まっていた叔母は、皆が寝静まったなかで、あの広い空間で、叔父のそばでひたすら泣いていたという。「その姿を見るのが本当につらくて・・・」と話す叔母に父の言葉に、叔母は「やめてよ」と子どもみたいに泣きじゃくった。親の前で、普段はあっけからんとした叔母が、まるで子どものように見えた。

 

 べつにこれは叔父と叔母の感動物語だと思ったわけじゃなかった。

 ただ、愛した人を、夫を失くすというのはこういうことなんだと、私の中でただ印象に残っている。

 

 同時に母が陰で、悲しむ以前に「あのひとはいい。だって働いて稼げるんだから」と憎々しげにというか、悔しそうにというか、少なくともその場に似つかわしくない雰囲気で言っていたのが記憶にあるからだろうか。

 

 祖母と祖父が、すごくつらそうにしながら、泣きながら、もう出なくなった声でまず最初にしたのが叔母の両親に土下座して「本当に申し訳ございません」と謝ったことに、「あなた達が子供を失ったのに、なぜ今謝るのか」と思ったからだろうか。

 

 あの父が、棺に入れる最後の儀式の時には、泣くこともしない、ただ「ア・・・ア・・・・」と言いながら、立てなくなっていたからだろうか。

 

 少なくともいろんな人がそこで社会的地位向上の争いをして、親族は蔑ろにされて、一つ一つが揉め事となり、ときに叫び声が響いたあの一週間くらいは、狂乱のパーティーのようだった。子どもだった私にとって、大人の欲に狂ったパーティー

 

 叔母は叔父の骨をネックレスにして、日々つけていた。

 久々に去年会った時は、叔父のぶんの結婚指輪まで、重ねづけしていた。

 

 本当に好きだったのだなと思う。

 その反面、叔父が生きていたらこうではなかった、と思う気持ちもあるが。

 

 そのことについて私は祖母に「いまだにおじちゃんの結婚指輪までつけて、会いたいって言ったら来てくれて、いいお嫁さんだよね、ほんと」と言った。

 

 「私はそうは思わない」が祖母の答えだった。

 

 要するに、叔父が生きていたときにしてくれた、自分を旅行に連れていってくれる、花火の時なんかは釧路で1番のホテルから見れるように部屋を予約して呼んでくれる、みたいなことをしてくれないし、嫁として尽くしてもくれないというのだ。

 

 今でも祖母の誕生日には何か贈ってくれて、孫の節目の写真や成績表を送ってくれて、祖父の命日の頃には花を贈ってくれて、いまだに再婚もせず、叔父との子をまともに育て、結婚指輪を重ねづけしてくれる叔母に、なんの文句があるのだろうか。

 

 私があまり有名じゃない大学に入学したときに、辞めさせて結婚させようと平気で思っていた祖母の行動以来、久々にひどい嫌悪感を感じた。

 

 祖母のことは気掛かりである。北海道の山に1人で暮らして数年単位でしか会えず、残った息子は最低なうちの父親。

 母方の祖母とかなり密に過ごしているぶん、負い目みたいなものがあった。

 

 が、全部消えた!

 

 何をしても文句は言う!

 私の人生より自分の価値観!

 

 そしてなにより、どう考えても父の行動は家族を破壊しているのに見て見ぬふりをして無視してきたり、「あなたのお母さんがおかしいし、あなたが自立してないから」と自分に都合よく考えるところが本当にしんどかった。

 どんなに現実を話しても素知らぬふりをしたりする。

 「釧路にでも住もうかな」と言ったら「お金がかかる、北見の実家に暮らしなさい」と言うから「そんなこともうできなくない?」と言えば、「そこをうまくやるのよ!」と言われたときには、ああ、この人現実が見えてないんだな、としみじみ思った。

 父のしたことを話せば「今度はもっといい話持ってきて」とか平気で言うしね。

 

 祖母の介護というか看取りというか、というのは、長年ネックだった。

 父がやり切れるか疑問だし、むしろ私に丸投げする気だと思うし、まあ、それなりに愛してくれた祖母を見捨てるみたいで「やらない」という選択肢をあまり考えてなかった。

 

 でも結局、この人は父と並んで究極の自己中なのだ。

 人に何かをしてもらうのが当たり前で、してもらえばもらうほど「もっと!」となる。父とそっくりだ。

 

 つまり私は、関われば永遠に搾取され続けることになる。そんな人は、親族でも避けるべき。

 

 今回、猫アレルギーに苦しんでるのを無視されながら、二週間近く祖母の家にいた。もう充分!死ぬ前に祖母孝行はした!

 

 もうこれ以上、祖母に何かする必要はないと思っている。月に一回くらい電話するとか、死目に会いに行くくらいはするが、献身的な行動はしたくない。

 

 私はいろんな夢を経て、今掲げているのは「愛でいっぱいの人生にすること」である。

 今までの自分本位な、職業とかの夢からは外れたけど気に入っている。人に愛を注いで、人を愛し、まああわよくばこちらも愛をもらって愛に満ちた人生を送る。

 父や祖母には無縁のものだと思う。

 そしてシビアな話をすると、あわよくば、の愛をもらえなきゃ、要するにキャッチボールをしなければ自分がしんどいので、キャッチボールできる相手と付き合って、愛でいっぱいにしたいと思う。それが現実的。

 そして、そのなかに父はいないし、祖母もあまり入っていないみたい。

 

 こんなとき、「私もいろいろ必要なものといらないもの、分別できるようになったんだなぁ」としみじみする。

 こうやって大人になって、人生を研いでいくのだな、と思います。

 

 

愛でいっぱいにして、楽しく生きていきたいね

ドラマ

 服が急に似合わなくなった。

 そんな経験誰もがあるだろう。

 私が似合わなくなったのは、BABY, THE STARS SHINE BRIGHTロリィタ服だった。

 

 

 去年のクリスマスのディナーコンサート。お気に入りのいちごとチョコレートの、ピンク色のジャンパースカートを着てクリスマスっぽくしたつもり。でも黒のブラウスで少し大人に、私っぽく。

 でも私は、もともと私をいじめていた女の子からの目線に違和感を感じた。彼女も気まずいみたいで話しかけてこない。でももしかして、私の格好を見て話しかけてこないのかな。珍しくそう思った。だって彼女は、すごく大人っぽいファッションだったから。

 

 決定打は大晦日。家族同然の妹分がお泊まりに来た。前から着てみたいと言っていたのを、満を持してロリィタ体験。ロリィタを着た彼女はとても可愛く、一緒に初めてのメイクをする彼女にたち会えるのが嬉しくて、ついニヤニヤしてしまう。

 

 でも彼女はすごく似合って、可愛かった。

 

 

 体型もあるだろう。ギュウギュウに詰め込んでなんとか着る私と違い、彼女はブカブカなくらいだった。細くてその少女っぽさが、ロリィタによく似合う。

 

 でも彼女の可愛さは、間違いなく若さがもたらす美しさだった。

 

 

 私にロリィタが似合わないわけじゃないと思う。言ってしまえば、ロリィタは下手に細すぎる身体より、太めの方が迫力が負けずに似合うくらいだ。それにある意味、迫力で着こなすものなので、着続けているプライドが必要なものだと感じる。

 

 

 でも彼女はすごく可愛かった。

 それと同時に、自分にBABYがもう甘すぎる、という現実を認めざるを得なくなった。

 

 

 なんとなく、前ほど本気で周りから「可愛い」と言われるより、呆れた「可愛い」を聞くことが多くなった気がしていた。これは住む土地が変わったからもあるかもしれないが。

 

 前なら自分にぴったり、と思っていたミルクティー色のくまの耳がついたケープコートが甘すぎるように感じ、キュートな柄がたくさん入ったジャンパースカートが自分から浮いているように違和感を覚え始めた。おでこ靴が子供っぽくて、これも違和感。

 

 BABYが、私に似合ってない。あの寄り添うような、守られているような感覚が、もうない。

 

 

 結論。私にBABYはもう似合わない。

 

 

 年齢的なことが1番問題なのかもしれない。私がBABYを着れなくなる日が来るなんて。

 でもどうだろう。BABYで見かけた、45歳は過ぎていそうな女性。金髪のウィッグを被って甘いBABYを全身に身につける姿は、私のなりたいものではなかった。

 

 

 私の人生のステージが変わり、BABYが似合わなくなったのだ。

 服が似合わなくなるときは大抵そうだ。年齢を感じさせるというより、自分の中の生き方が、生き様が、スピリットが変わったとき。そんなときに服に違和感を感じるようになる。

 

 

 これは変えどき。そう思った私は、個人ブランドや作家もののロリィタファッションが揃う、セレクトショップを覗きに行った。

 ネットでは完売の商品や、今や店頭販売されていないブランドまであってびっくりした。名古屋でしか扱っていないそうで、小さなお店でも名古屋のロリィタファッション文化を担っているのだと嬉しくなる。

 店員さんに「BABYが似合わなくなって・・・こういうブランドに変えどきかなと思って・・・・」と言うと、「そういう時期、ありますね」と言いながら、店内をじっくり見る私に、「これ、あのなくなったブランドのデザイナーさんが新たに作ったブランドのお洋服ですよ」とか、ゆっくり付き合ってくれた。

 

 個人ブランドのほとんどが、デザイナー本人が着たいと思った服、という条件をまず満たしている。個人ブランドを作るくらいだから35歳を過ぎているのが当たり前で、体型的にもキュッと締まったロリィタ服が着れなくなるデザイナーさんが多く、まず体型にわりと配慮されて、着ていて疲れないものが多い。

 ロリィタは疲れようとも精神で着るもの、という考えも多いが、実際問題、歳がいくとロリィタ服と生活を両立させて着れるものをデザイナーさんご本人も思うのだろう。フィジカルドロップのデザイナーさんなんて、「ライブで立ったままヘドバンできなきゃ意味ない」とそれ前提で作ってるとか、聞いたことあるし・・・

 かつて流行ったまんが、Real Clothsでもあった。年齢的に既成服が着づらくなってきたら、デザイナーものを着るべきだと。デザイナーのスピリットそのものが、服と自分のスピリットを結びつけるからと。

 

 

 BABYが着れなくなったのは、悲しい。私の最愛のブランドだったから。

 でも新しいロリィタの世界がある。ロリィタは甘いだけじゃない。スピリットを着るのだから。

 

 もしかしたら、今まで「ちょいダサくない?」と敬遠してたメタモルフォーゼのロリィタ服が、逆に今そのダサさがピッタリかも、と思ったりもするし、個人ブランドを着こなすのも楽しみだ。もしかしたら、今まで似合わないと嘆いていたBABYのお姉さんブランドであるアリパイが着こなせるかもしれない。少なくとも、ものによってはBABYの髪飾りはいまだに似合うし、BABYと完全に切れてしまうわけではないし。

 

 しかも、金欠なので残り少ないBABYのものを売ったりしているのだが、くまくみゃちゃんのぬいぐるみが悲しそうな顔をしているので、なんか売れなくて元の位置に戻したら嬉しそうな顔をしておる。きみ、うちのぬいぐるみに親友でもできたんか?

 

 服が似合わなくなる。当然だ。7年前の私とは違うのだから。

 でも、新しいロリィタ服を身につけることはできる。今の私にぴったり合うスピリットを持つ、ロリィタ服を!

 

 世界の終わりじゃないし、私はここでロリィタ服を諦めない。

 ばかみたいだけど、私の運命のお洋服で、闘いで、矜持だから。

 

 いつまでパニエ膨らませて歩けるかわかんないけど、やる気があるかぎりは、パニエ膨らませるよ!

 

 

 

こんな可愛い服が似合うときがあったの。

 

Luv Bias

 なんとなく今年の振り返りをしておこうか、と思ったけど、なぜかPCから書けない。なぜだ。それでもiPadで書くのだから、相当書きたいのかもしれないね。

 

 毎年「波乱の年だったな。来年こそ落ち着くかな」と思っているが、落ち着いた試しがない。それが人生なのかもしれない、と思い始めた。もっと穏やかな人生を送っている人なんて山といるだろうが、私はその中に入れないらしい、なぜか。

 

 学校に入ってわりとうまくいっているかと思えば人生初の手術となり、学校ではいじめられて精神的には不安定になった。いじめじゃないと思っていたが、今のクラスメイトたちのドロドロした話を聞く限り、普通にいじめだったなと思い返した。正直来年学校に戻るかというと、実習などに参加できるかも不安だが、クラスで勉強に集中できる環境はないと思ったので無理だな、と感じている。

 

 母との生活もなんとなく落ち着いている。多分私が学校に行ってないのは、母の精神安定に大きいのだろう。母は多分、予定に縛られるとすべてがうまくできなくなってストレスでお酒に走るのだと思う。特に子どものことであれば。

 なので今は私が特にどこかに通っていない生活をしているから成り立つのであって、就労支援なり作業所なり通い始めたら、それはそれで前の酒に走ってた生活に戻るかもしれない。つくづく働くのに向いていない一家だな、と思う。

 

 不思議なことに、働いても学校に行ってもいないのに、私の生活はそれなりに多忙だ。働かずにこれなら、働いたらどうなるんだ?と恐怖を感じる。

 

 学校には馴染めなかったが、友人はできた。LGBTQの男の子(女の子?)と、48歳の女の人は学校がなくなっても付き合いが続いている。ご飯に行ったり、ダラダラお茶したり。

 ご近所さん騒動のおかげで、マンションの管理人さんとよく話したり、ご近所さんのちょっとしたご飯会の開催で、同年代の友人もできた。尊敬する人とも名前で呼んだり、LINEを交換できたり、ハグして「あなたのことが好きよ、あなたにはしあわせになってほしい」とか、「枕だけ持って泊まりにでも、ご飯でもいらっしゃい」とか、友人になった子の家からも「いつでも遊びにおいで、泊まりにおいで」とけっこうお世辞でなくガチな感じで言われて、 すでに2回泊まりに行っている。お父さんと話したり、お母さんから料理の話を聞くのも楽しい。友人になった子とも、順調に遊んだり、文通しようなんてことも話している。

 元旦は息子さんから呼ばれないと少し寂しそうだったご近所のおばあさんを招いているし、大晦日は東京から家族同然の妹分が泊まりにくる。

 

 それこそご近所さんを呼んで軽い食事会を私が開催したら、みんな喜んで午前2時まで!楽しんでくれて、なんか楽しいし、自信が持てたのだ。

 呼んで呼ばれての関係が出来上がっているし、次回はこんな料理をしたい、とかもう考えていて、意外なことに母も乗り気で、来客を嫌がらない。

 大好きなクニエダヨシエさんの本で、テーブルコーディネートの勉強もする気になった。

 

 学校にも行ってない。仕事もしていない。でもなんか、いままでになく充実してる感じ。

 名古屋に来て知り合いの輪がうまくいくようになった。

 関西、北海道、東京から福岡に帰った子と、各地の友達と連絡はきちんと取っているし、名古屋でも順調に友達ができている。ご近所さんとの付き合いで、私は意外と人を家に呼ぶのが好きなのもわかった。

 

 私は父親に、友達がいない、いじめられている状態を満足げに見られ、「人間は1人、君と僕はよく似ている」と満足げに可愛がられていた。でもわたしはそんな殻を破り、人と親しくなれるようになったのだ。

 

 父親の呪縛から、こうやって逃れられ始めているのかと思う。

 

 ただ同時に、働くことがあまりに向いていない、自分の生活と両立できないという自分の限界を感じて、ゆっくり障害者雇用で働くとか、あわよくば結婚とかそっちに目が向いている。

 よく考えたら大学時代、働くのが苦手だとなんとなくわかってたから結婚を早くしたいと思っていたのに、時代や周りの意見に流されて、「やっぱ今の時代働かなきゃダメなのか」と自分に無理を強いていたのかもしれない、と思い返した。どんなに時代が働けと言っても、働くのができない人間だっているのだ。

 

 となると父親の脛を齧り続けるのか、とかの問題はあるけど、なんとなくどうにかなるだろうと感じている。

 気持ちが底に落ちることはあるけど、私は幸いなことに経済的に底に落ちたことはない。カウンセリングの先生からも「一生お金には困らない星に生まれている」と言われたのを心の糧に、たしかにそんなことはないなあ、と実感しているので。

 とはいえ、いい加減もう少しお金の使い方を考えないと、ロリィタ服が3分の1以下の数になっているが。もはや売れるものがない。

 

 

 父親は、人との縁を蔑ろに生きてきたし、今もそう。

 でも私は、いつか会わなくなる時がきても、人との輪は大切なものだと思っている。私は周りに人がいないと生きていられないのだ。

 それに気づけたことが、いい年だったなと思っている。どうせ結婚できない、なんて拗ねてるより、のんびりでも結婚の縁を待っていたほうがいいタイプなのもなんとなくわかった。

 

 今年は初の黒豆を煮ている。これもご近所さんのお母さんが「難しくないから煮てみなさい」と煮るための鉄をくれたから。

 家族がいるからおせち作りに励むし、妹の好きなものは2倍作るし、妹分やご近所さんが来るから、大車輪で買い物も料理も計画的にしている。計画的にしていても、この寝てない現実なんだけど。

 「お姉ちゃんは、生まれた時代が違えば本当に結婚していい奥さんできたのにね」みたいなことを買い物しながら妹に言われたが、実際その通りだと思う。

 トウはたったけど、結婚を目指したほうが私の人生は豊かなのだろう、と実感した年でもありました。

 

 まあ春夏好きだった人がガチのクズだったけど!

 

 切実に見合い結婚したい。

 来年に期待しよう。

 

海外生活したい気持ちもまた出てきた