分別奮闘記

 キャサリン妃がガンを公表したらしい。そんなニュースと、叔父がガンで亡くなったときに「叔父夫婦の歌だな」と思ったBUMP OF CHICKENの飴玉の唄の歌詞を上げているフォロワーがいて、なんとなくもの悲しい気持ちになって、久々のブログに手が伸びた。

 この「飴玉の唄」は私にとって命の歌みたいなもので、人間の死や別れへの恐怖心、依存心をよく表現しているなと思う。希死念慮がひどいときや、白血病の疑いがあった時期はよく聴いていた。逆にいうと、何かがなければ聴けない、箱の中に閉じ込めておく曲。

 

 叔父の死は、私の人生においてけっこうショッキングなことにいまだランクインする。べつに叔父と親しかったわけではないし、叔父は人に好かれるが、その反面人の気持ちを平気で無碍にする、薄情で無惨な人だったと思っている。叔父は早く死んだから、伝説となり人からいまだ愛されるのだ。

 

 でも、叔母の愛は本物だったと思う。

 皆が急な葬式に慌てふためくなか、中学生で何もすることがない私は、家で使っていた布団に寝かされた叔父をひたすら眺めていた。ああ死んだのか、と変にしっくりして、しかし現実味がなかった。

 そこにふと手の空いた叔母が現れて「寝てるみたいでしょ?」と普通に話しかけてきた。泣き続けて声も出なくなった祖母とは違い、叔母はときに笑顔も見せながら、喪主としてするべきことをこなしていた。でもそのとき、叔父の頬を撫でながら「ねえ、寝過ぎだよ、起きてよ、ねえ」と泣きはじめたのである。

 

 本当に一瞬の出来事。

 誰も気にしていなかった。だれも寄ってこなかった。叔父の遺体と叔母と一緒に、異空間に閉じ込められたのかと思った。

 

 そのあとあまりはっきり覚えていないが、叔母は持ち直して去っていったと思う。

 でも、その日その公民館に泊まっていた叔母は、皆が寝静まったなかで、あの広い空間で、叔父のそばでひたすら泣いていたという。「その姿を見るのが本当につらくて・・・」と話す叔母に父の言葉に、叔母は「やめてよ」と子どもみたいに泣きじゃくった。親の前で、普段はあっけからんとした叔母が、まるで子どものように見えた。

 

 べつにこれは叔父と叔母の感動物語だと思ったわけじゃなかった。

 ただ、愛した人を、夫を失くすというのはこういうことなんだと、私の中でただ印象に残っている。

 

 同時に母が陰で、悲しむ以前に「あのひとはいい。だって働いて稼げるんだから」と憎々しげにというか、悔しそうにというか、少なくともその場に似つかわしくない雰囲気で言っていたのが記憶にあるからだろうか。

 

 祖母と祖父が、すごくつらそうにしながら、泣きながら、もう出なくなった声でまず最初にしたのが叔母の両親に土下座して「本当に申し訳ございません」と謝ったことに、「あなた達が子供を失ったのに、なぜ今謝るのか」と思ったからだろうか。

 

 あの父が、棺に入れる最後の儀式の時には、泣くこともしない、ただ「ア・・・ア・・・・」と言いながら、立てなくなっていたからだろうか。

 

 少なくともいろんな人がそこで社会的地位向上の争いをして、親族は蔑ろにされて、一つ一つが揉め事となり、ときに叫び声が響いたあの一週間くらいは、狂乱のパーティーのようだった。子どもだった私にとって、大人の欲に狂ったパーティー

 

 叔母は叔父の骨をネックレスにして、日々つけていた。

 久々に去年会った時は、叔父のぶんの結婚指輪まで、重ねづけしていた。

 

 本当に好きだったのだなと思う。

 その反面、叔父が生きていたらこうではなかった、と思う気持ちもあるが。

 

 そのことについて私は祖母に「いまだにおじちゃんの結婚指輪までつけて、会いたいって言ったら来てくれて、いいお嫁さんだよね、ほんと」と言った。

 

 「私はそうは思わない」が祖母の答えだった。

 

 要するに、叔父が生きていたときにしてくれた、自分を旅行に連れていってくれる、花火の時なんかは釧路で1番のホテルから見れるように部屋を予約して呼んでくれる、みたいなことをしてくれないし、嫁として尽くしてもくれないというのだ。

 

 今でも祖母の誕生日には何か贈ってくれて、孫の節目の写真や成績表を送ってくれて、祖父の命日の頃には花を贈ってくれて、いまだに再婚もせず、叔父との子をまともに育て、結婚指輪を重ねづけしてくれる叔母に、なんの文句があるのだろうか。

 

 私があまり有名じゃない大学に入学したときに、辞めさせて結婚させようと平気で思っていた祖母の行動以来、久々にひどい嫌悪感を感じた。

 

 祖母のことは気掛かりである。北海道の山に1人で暮らして数年単位でしか会えず、残った息子は最低なうちの父親。

 母方の祖母とかなり密に過ごしているぶん、負い目みたいなものがあった。

 

 が、全部消えた!

 

 何をしても文句は言う!

 私の人生より自分の価値観!

 

 そしてなにより、どう考えても父の行動は家族を破壊しているのに見て見ぬふりをして無視してきたり、「あなたのお母さんがおかしいし、あなたが自立してないから」と自分に都合よく考えるところが本当にしんどかった。

 どんなに現実を話しても素知らぬふりをしたりする。

 「釧路にでも住もうかな」と言ったら「お金がかかる、北見の実家に暮らしなさい」と言うから「そんなこともうできなくない?」と言えば、「そこをうまくやるのよ!」と言われたときには、ああ、この人現実が見えてないんだな、としみじみ思った。

 父のしたことを話せば「今度はもっといい話持ってきて」とか平気で言うしね。

 

 祖母の介護というか看取りというか、というのは、長年ネックだった。

 父がやり切れるか疑問だし、むしろ私に丸投げする気だと思うし、まあ、それなりに愛してくれた祖母を見捨てるみたいで「やらない」という選択肢をあまり考えてなかった。

 

 でも結局、この人は父と並んで究極の自己中なのだ。

 人に何かをしてもらうのが当たり前で、してもらえばもらうほど「もっと!」となる。父とそっくりだ。

 

 つまり私は、関われば永遠に搾取され続けることになる。そんな人は、親族でも避けるべき。

 

 今回、猫アレルギーに苦しんでるのを無視されながら、二週間近く祖母の家にいた。もう充分!死ぬ前に祖母孝行はした!

 

 もうこれ以上、祖母に何かする必要はないと思っている。月に一回くらい電話するとか、死目に会いに行くくらいはするが、献身的な行動はしたくない。

 

 私はいろんな夢を経て、今掲げているのは「愛でいっぱいの人生にすること」である。

 今までの自分本位な、職業とかの夢からは外れたけど気に入っている。人に愛を注いで、人を愛し、まああわよくばこちらも愛をもらって愛に満ちた人生を送る。

 父や祖母には無縁のものだと思う。

 そしてシビアな話をすると、あわよくば、の愛をもらえなきゃ、要するにキャッチボールをしなければ自分がしんどいので、キャッチボールできる相手と付き合って、愛でいっぱいにしたいと思う。それが現実的。

 そして、そのなかに父はいないし、祖母もあまり入っていないみたい。

 

 こんなとき、「私もいろいろ必要なものといらないもの、分別できるようになったんだなぁ」としみじみする。

 こうやって大人になって、人生を研いでいくのだな、と思います。

 

 

愛でいっぱいにして、楽しく生きていきたいね

ドラマ

 服が急に似合わなくなった。

 そんな経験誰もがあるだろう。

 私が似合わなくなったのは、BABY, THE STARS SHINE BRIGHTロリィタ服だった。

 

 

 去年のクリスマスのディナーコンサート。お気に入りのいちごとチョコレートの、ピンク色のジャンパースカートを着てクリスマスっぽくしたつもり。でも黒のブラウスで少し大人に、私っぽく。

 でも私は、もともと私をいじめていた女の子からの目線に違和感を感じた。彼女も気まずいみたいで話しかけてこない。でももしかして、私の格好を見て話しかけてこないのかな。珍しくそう思った。だって彼女は、すごく大人っぽいファッションだったから。

 

 決定打は大晦日。家族同然の妹分がお泊まりに来た。前から着てみたいと言っていたのを、満を持してロリィタ体験。ロリィタを着た彼女はとても可愛く、一緒に初めてのメイクをする彼女にたち会えるのが嬉しくて、ついニヤニヤしてしまう。

 

 でも彼女はすごく似合って、可愛かった。

 

 

 体型もあるだろう。ギュウギュウに詰め込んでなんとか着る私と違い、彼女はブカブカなくらいだった。細くてその少女っぽさが、ロリィタによく似合う。

 

 でも彼女の可愛さは、間違いなく若さがもたらす美しさだった。

 

 

 私にロリィタが似合わないわけじゃないと思う。言ってしまえば、ロリィタは下手に細すぎる身体より、太めの方が迫力が負けずに似合うくらいだ。それにある意味、迫力で着こなすものなので、着続けているプライドが必要なものだと感じる。

 

 

 でも彼女はすごく可愛かった。

 それと同時に、自分にBABYがもう甘すぎる、という現実を認めざるを得なくなった。

 

 

 なんとなく、前ほど本気で周りから「可愛い」と言われるより、呆れた「可愛い」を聞くことが多くなった気がしていた。これは住む土地が変わったからもあるかもしれないが。

 

 前なら自分にぴったり、と思っていたミルクティー色のくまの耳がついたケープコートが甘すぎるように感じ、キュートな柄がたくさん入ったジャンパースカートが自分から浮いているように違和感を覚え始めた。おでこ靴が子供っぽくて、これも違和感。

 

 BABYが、私に似合ってない。あの寄り添うような、守られているような感覚が、もうない。

 

 

 結論。私にBABYはもう似合わない。

 

 

 年齢的なことが1番問題なのかもしれない。私がBABYを着れなくなる日が来るなんて。

 でもどうだろう。BABYで見かけた、45歳は過ぎていそうな女性。金髪のウィッグを被って甘いBABYを全身に身につける姿は、私のなりたいものではなかった。

 

 

 私の人生のステージが変わり、BABYが似合わなくなったのだ。

 服が似合わなくなるときは大抵そうだ。年齢を感じさせるというより、自分の中の生き方が、生き様が、スピリットが変わったとき。そんなときに服に違和感を感じるようになる。

 

 

 これは変えどき。そう思った私は、個人ブランドや作家もののロリィタファッションが揃う、セレクトショップを覗きに行った。

 ネットでは完売の商品や、今や店頭販売されていないブランドまであってびっくりした。名古屋でしか扱っていないそうで、小さなお店でも名古屋のロリィタファッション文化を担っているのだと嬉しくなる。

 店員さんに「BABYが似合わなくなって・・・こういうブランドに変えどきかなと思って・・・・」と言うと、「そういう時期、ありますね」と言いながら、店内をじっくり見る私に、「これ、あのなくなったブランドのデザイナーさんが新たに作ったブランドのお洋服ですよ」とか、ゆっくり付き合ってくれた。

 

 個人ブランドのほとんどが、デザイナー本人が着たいと思った服、という条件をまず満たしている。個人ブランドを作るくらいだから35歳を過ぎているのが当たり前で、体型的にもキュッと締まったロリィタ服が着れなくなるデザイナーさんが多く、まず体型にわりと配慮されて、着ていて疲れないものが多い。

 ロリィタは疲れようとも精神で着るもの、という考えも多いが、実際問題、歳がいくとロリィタ服と生活を両立させて着れるものをデザイナーさんご本人も思うのだろう。フィジカルドロップのデザイナーさんなんて、「ライブで立ったままヘドバンできなきゃ意味ない」とそれ前提で作ってるとか、聞いたことあるし・・・

 かつて流行ったまんが、Real Clothsでもあった。年齢的に既成服が着づらくなってきたら、デザイナーものを着るべきだと。デザイナーのスピリットそのものが、服と自分のスピリットを結びつけるからと。

 

 

 BABYが着れなくなったのは、悲しい。私の最愛のブランドだったから。

 でも新しいロリィタの世界がある。ロリィタは甘いだけじゃない。スピリットを着るのだから。

 

 もしかしたら、今まで「ちょいダサくない?」と敬遠してたメタモルフォーゼのロリィタ服が、逆に今そのダサさがピッタリかも、と思ったりもするし、個人ブランドを着こなすのも楽しみだ。もしかしたら、今まで似合わないと嘆いていたBABYのお姉さんブランドであるアリパイが着こなせるかもしれない。少なくとも、ものによってはBABYの髪飾りはいまだに似合うし、BABYと完全に切れてしまうわけではないし。

 

 しかも、金欠なので残り少ないBABYのものを売ったりしているのだが、くまくみゃちゃんのぬいぐるみが悲しそうな顔をしているので、なんか売れなくて元の位置に戻したら嬉しそうな顔をしておる。きみ、うちのぬいぐるみに親友でもできたんか?

 

 服が似合わなくなる。当然だ。7年前の私とは違うのだから。

 でも、新しいロリィタ服を身につけることはできる。今の私にぴったり合うスピリットを持つ、ロリィタ服を!

 

 世界の終わりじゃないし、私はここでロリィタ服を諦めない。

 ばかみたいだけど、私の運命のお洋服で、闘いで、矜持だから。

 

 いつまでパニエ膨らませて歩けるかわかんないけど、やる気があるかぎりは、パニエ膨らませるよ!

 

 

 

こんな可愛い服が似合うときがあったの。

 

Luv Bias

 なんとなく今年の振り返りをしておこうか、と思ったけど、なぜかPCから書けない。なぜだ。それでもiPadで書くのだから、相当書きたいのかもしれないね。

 

 毎年「波乱の年だったな。来年こそ落ち着くかな」と思っているが、落ち着いた試しがない。それが人生なのかもしれない、と思い始めた。もっと穏やかな人生を送っている人なんて山といるだろうが、私はその中に入れないらしい、なぜか。

 

 学校に入ってわりとうまくいっているかと思えば人生初の手術となり、学校ではいじめられて精神的には不安定になった。いじめじゃないと思っていたが、今のクラスメイトたちのドロドロした話を聞く限り、普通にいじめだったなと思い返した。正直来年学校に戻るかというと、実習などに参加できるかも不安だが、クラスで勉強に集中できる環境はないと思ったので無理だな、と感じている。

 

 母との生活もなんとなく落ち着いている。多分私が学校に行ってないのは、母の精神安定に大きいのだろう。母は多分、予定に縛られるとすべてがうまくできなくなってストレスでお酒に走るのだと思う。特に子どものことであれば。

 なので今は私が特にどこかに通っていない生活をしているから成り立つのであって、就労支援なり作業所なり通い始めたら、それはそれで前の酒に走ってた生活に戻るかもしれない。つくづく働くのに向いていない一家だな、と思う。

 

 不思議なことに、働いても学校に行ってもいないのに、私の生活はそれなりに多忙だ。働かずにこれなら、働いたらどうなるんだ?と恐怖を感じる。

 

 学校には馴染めなかったが、友人はできた。LGBTQの男の子(女の子?)と、48歳の女の人は学校がなくなっても付き合いが続いている。ご飯に行ったり、ダラダラお茶したり。

 ご近所さん騒動のおかげで、マンションの管理人さんとよく話したり、ご近所さんのちょっとしたご飯会の開催で、同年代の友人もできた。尊敬する人とも名前で呼んだり、LINEを交換できたり、ハグして「あなたのことが好きよ、あなたにはしあわせになってほしい」とか、「枕だけ持って泊まりにでも、ご飯でもいらっしゃい」とか、友人になった子の家からも「いつでも遊びにおいで、泊まりにおいで」とけっこうお世辞でなくガチな感じで言われて、 すでに2回泊まりに行っている。お父さんと話したり、お母さんから料理の話を聞くのも楽しい。友人になった子とも、順調に遊んだり、文通しようなんてことも話している。

 元旦は息子さんから呼ばれないと少し寂しそうだったご近所のおばあさんを招いているし、大晦日は東京から家族同然の妹分が泊まりにくる。

 

 それこそご近所さんを呼んで軽い食事会を私が開催したら、みんな喜んで午前2時まで!楽しんでくれて、なんか楽しいし、自信が持てたのだ。

 呼んで呼ばれての関係が出来上がっているし、次回はこんな料理をしたい、とかもう考えていて、意外なことに母も乗り気で、来客を嫌がらない。

 大好きなクニエダヨシエさんの本で、テーブルコーディネートの勉強もする気になった。

 

 学校にも行ってない。仕事もしていない。でもなんか、いままでになく充実してる感じ。

 名古屋に来て知り合いの輪がうまくいくようになった。

 関西、北海道、東京から福岡に帰った子と、各地の友達と連絡はきちんと取っているし、名古屋でも順調に友達ができている。ご近所さんとの付き合いで、私は意外と人を家に呼ぶのが好きなのもわかった。

 

 私は父親に、友達がいない、いじめられている状態を満足げに見られ、「人間は1人、君と僕はよく似ている」と満足げに可愛がられていた。でもわたしはそんな殻を破り、人と親しくなれるようになったのだ。

 

 父親の呪縛から、こうやって逃れられ始めているのかと思う。

 

 ただ同時に、働くことがあまりに向いていない、自分の生活と両立できないという自分の限界を感じて、ゆっくり障害者雇用で働くとか、あわよくば結婚とかそっちに目が向いている。

 よく考えたら大学時代、働くのが苦手だとなんとなくわかってたから結婚を早くしたいと思っていたのに、時代や周りの意見に流されて、「やっぱ今の時代働かなきゃダメなのか」と自分に無理を強いていたのかもしれない、と思い返した。どんなに時代が働けと言っても、働くのができない人間だっているのだ。

 

 となると父親の脛を齧り続けるのか、とかの問題はあるけど、なんとなくどうにかなるだろうと感じている。

 気持ちが底に落ちることはあるけど、私は幸いなことに経済的に底に落ちたことはない。カウンセリングの先生からも「一生お金には困らない星に生まれている」と言われたのを心の糧に、たしかにそんなことはないなあ、と実感しているので。

 とはいえ、いい加減もう少しお金の使い方を考えないと、ロリィタ服が3分の1以下の数になっているが。もはや売れるものがない。

 

 

 父親は、人との縁を蔑ろに生きてきたし、今もそう。

 でも私は、いつか会わなくなる時がきても、人との輪は大切なものだと思っている。私は周りに人がいないと生きていられないのだ。

 それに気づけたことが、いい年だったなと思っている。どうせ結婚できない、なんて拗ねてるより、のんびりでも結婚の縁を待っていたほうがいいタイプなのもなんとなくわかった。

 

 今年は初の黒豆を煮ている。これもご近所さんのお母さんが「難しくないから煮てみなさい」と煮るための鉄をくれたから。

 家族がいるからおせち作りに励むし、妹の好きなものは2倍作るし、妹分やご近所さんが来るから、大車輪で買い物も料理も計画的にしている。計画的にしていても、この寝てない現実なんだけど。

 「お姉ちゃんは、生まれた時代が違えば本当に結婚していい奥さんできたのにね」みたいなことを買い物しながら妹に言われたが、実際その通りだと思う。

 トウはたったけど、結婚を目指したほうが私の人生は豊かなのだろう、と実感した年でもありました。

 

 まあ春夏好きだった人がガチのクズだったけど!

 

 切実に見合い結婚したい。

 来年に期待しよう。

 

海外生活したい気持ちもまた出てきた

 

飛翔

 喉の違和感を感じて風邪の気配を感じているみあです。

 何が怖いって?「そんな薄着してるからだ」とばあちゃんにそらみろと言われることが怖いですね。でもはっきり言ってこの家の暖房が薄すぎます。夜には2℃とかになる土地だぞ。なぜほとんど暖房なしでいけると思う。その辺りが本州の暖房費もったいない、10月につけることはないと考える本州の感覚なんでしょうねぇ。

 

 もう一度言う。今2℃だぞ。ここは北海道の山奥だ。暖かい暖房が必要だ。

 

 

 まあ言ってもしょうがないね。でも風邪気味だね。

 

 ここに来てから、祖母にちょこちょこ病気について言っている。しかし返ってくる言葉は

「なんでそんなことになったの」

「治るといいね」

「あなたは甘えているから自立しなさい」

「昔はそんな人いなかった」

といった言葉。ある意味恐ろしいというか、現代に生きていないというか、これは批判じゃないのだ。本気の疑問や心配なのだ。まるで22歳の友人がヤバい宗教にハマり、私に「僕は救われたから君も救われてほしい」と、本気の善意で宗教に誘ってくれるように。

 

 

 今日は、18歳の従姉妹と叔母が来てくれた。血のつながっている叔父は亡くなっているからかなり他人に近いのだが、会いたいとLINEをしたら、わざわざ釧路からやってきてくれた。

 

 食事の待ち時間、公園で従姉妹とブランコを漕いでいた。すると祖母がわざわざ小声で、北見に言っても父に会わなかったこと、精神病で私の人生がうまくいってないことを叔母に話していた。小声じゃなくていいんよ!もはや小声で言われる方が気まずい!

 

 その1の攻撃。

 妹に彼氏ができて、なかなか惚れられてることを話すと、「あなた、妹には彼氏がいるなんてどんな気持ち?」と聞かれる。え、なに?Snow Manの僕の彼女になってよの「ねえねえねえどんな気持ち?」て歌詞か?

 強いていうなら、なんとも思っていない。好きな人できても上手くいかなかったとき、彼氏とお泊まりする妹が羨ましくなったが。それ以外は「私の遊び相手奪いやがって」ぐらいしか思っていない。でも祖母からすると、妹に相手がいて、相手のいない姉の私は随分惨めに見えるのだろう。

 

 その2の攻撃。

 「みあは23歳で結婚してくれると思っていたのに。晴れ姿が見れなかったらどうしてくれるの」と言われる。

 いや、ごめんな!無理だわ!これしか言えん。

 従姉妹にも「大学でいい人を見つけなさい」と言っていたし、私が30歳になっていて驚いた叔母たちに「ほんともうそんな歳なのに、結婚もなくて!」と叫んでいたが、弁護士として事務所を一つ運営して、まあありていに言うなら自立していて、都会育ちの叔母にはまったく意味がわからないらしく、叔母は困惑していた。

 

 その3の攻撃。

 もう大ネタは書いてしまったのだけど、散々「これ片付けたいから食べて」と言ってくるのに、叔母たちの前では「こんなに食べて丸々としてて・・・」みたいなこと言うの、どうなん。あと学校を手術やらで休学にしたことを叔母に伝えると、「本当に不運な子・・・」と呟かれて、なんか本心が見えた気がした。あと結構いい大学を受ける成績オール5の従姉妹の話を聞くたび、「あなたも頑張らないと」と横腹叩かれた。

 

 ああ、しんどい。

 

 そして叔母たちが帰り、「なんだかお姉ちゃんとゆった(従姉妹)の仲いいけど個人として見てる感じ見て辛くなっちゃった。ゆったは父親が死んでて一見不幸に思われるかもしれないけど、母親が人並み以上に稼いでるからそう不幸でもないし、はっきり言ってうちみたいな変な親に育てられた家より、よっぽどまともな人間に育って見える。羨ましい。」と私はこぼした。

 

 「あなたのところはやっぱりお母さんがおかしいもの」

 

 ごめんな!父親も頭おかしいんだわ!

 

 そして言われる。

 

 「あなたとママはパパに甘やかされてきたから、自立しないと。ママは働いて、あなたは結婚して。」

 

 わけわからん。

 結婚が自立なら母は自立している。

 母は経済的にも、どうも精神的にもいまだに父に未練がああるが、私は経済的なこと以外では自立している。それは京都のお父ちゃんからも言われているし、そもそも自立という意味については前、ブログでも書いた。

 

 そして「もう釧路か北見で仕事探すか!」と言うと「北見じゃないと釧路じゃ家賃かかるじゃない」と言われる。「父親と暮らせないから」というと「そこをこういまくやっていくのよ」と言われるが、父親が私にしたことはもう生涯許せない。私に父親はいない。

 

 

 なんか・・・ズレてるんだよなぁ・・・結局は祖母の願望でしかない、祖母からの文句。

 

 私は十分頑張って生きている。一応言うと、母ももがきながら生きている。なんか最近言葉の端々に父への依存が感じられるが。

 

 お金は出していなくとも、自力で航空券を取って旅を手配し、見たいものを見て、食べたいものを食べ、会いたい人に会う私は、果たして自立していないんだろうか。

 

 ほとんどの人は働くことを自立といい、働けば働くほどきちんと自立していると言う。

 

 でもどうかわかってほしい。

 体調的にも、精神的にも、「当たり前」に働くのが困難な人もいるということを。

 そしてそういった人たちのことを、「自立していない」「頑張っていない」と言うのは、相手にナイフを突き刺していることだということを。

 

 あと普通に疑問に思ってほしい。働いてるけど家では機能不全な父親とか、実はロリコンでヤバいことしてみたいな人もいるのに、働くイコール、正しい大人だと思われているということを。

 

 私は人生で躓いたりうまくいかないと、「私は人生でそんなに悪いことをしてきたのか」と自分を問いただしてつらくなる。でもそれは、世間に貼られたレッテルや正しさに押しつぶされそうになっているだけで、本来なら思わなくていいことだ。

 

 ごめんおばあちゃん。孫はそのくらい傷ついて必死に生きてるんだよ。

 何度も自分に包丁を突き立てて死のうとして、薬の過剰摂取で疑似自殺して、小学生から自傷行為をしてきた孫は、十分頑張って苦しんで生きてきたんだよ。

 

 

 わかってほしいけど、80になる祖母にそんなことを言うのは、酷なことだから言えずにいる、そんな夜でした。

 

 

線路のように人生は続いているけど、そんな頑張らなくていいんだよ


 

 

証拠

 北海道の山奥で祖母に毒される前に北見のブログを書きたい、と思ったら電波死んでるし、おかげでPCのブラウザは文字を打っても動かないしで、一時間格闘してiPadで打ち始めた。なんとなく物理キーボードで打たないと落ち着かないが、これもまたサバイバルの一種だろう。なんか部屋に何匹も虫が飛んでいるし、コンビニは15分程度車で走らなければない。そういうところへ来てしまったのだから、サバイバルするしかない。

 

 北見での宿泊を予定より1日延長してまで、親友たちと遊びまくった。遊びまくったと言ってもお茶を延々として食事をしたぐらいで、それも子ども付きだったりで、そう優雅な時間は過ごせたわけでもないかもしれない。

 でも、相手によってばらつきがあるが、3年会わなかった子もいれば、10年近く会わなかった子もいる。日常的にLINEで連絡を取り合っているのもあるが、まるで昨日ぶりに会ったかのように話せるのは、彼女たちが本物の友だからだと思う。焼肉をしても遠慮しない、肉の譲り合いが起きない関係、素晴らしい。

 

 でもびっくりしたことも多々ある。夫が転職を繰り返して生活が安定しないとか、夫とはいつでも離婚できるとか、親友の前歯がほとんどなくなっていたとか、ショックもまた尽きない。

 

 この帰省の前に、母から私の親友たちについて「得体の知れないあんたの友達なんか」と暴言を吐かれ、私は傷ついていた。たしかに、母からすると生活階層が違う、付き合ってほしくない貧困層に当たる子達かもしれない。

 まあ5歳の子供がシートベルトをつけずに車に乗せられているとか、ショックだったから2回いうけど前歯がないとか、たしかに私が生きてきた世界とはちょっと違う。でも、ひねくれてわけのわからない中学生時代の私を受け入れてくれたのは、彼女たちだった。

 

 10代の私たちは、それぞれ家庭の事情とかが複雑な方の人間で、いつもクラスからなんか外れていて、それもあって学校というコミュニティを斜に構えて見てた。

 ついでに言うと都会育ちの私は常になんかやっかまれていたし、私の持っている可愛い絆創膏や頭痛薬は欲しがって擦り寄ってきたり、ジャニーズショップで生写真を頼まれたから買ってきても、その代金を平気で渡してこない、そのうえで私をいじめてくる人間にうんざりしていた。

 

 だからこそ、4人の親友たちと過ごす時間は最高だったのかもしれない。

 何気ない帰り道、学校帰りにいつも寄る親友の家、学校からの逃亡、サボり、親がいないときのお泊まり。

 多分かなり恥ずかしい状態もお互い晒しあったし、今考えれば私の行動子どもだったな、相手のほうが大人だったとか考えることもある。でもそれがあるから、今、たとえ10年会わなくても、親友のままなのだろう。

 

 特に一人とは、なぜか似通う部分が多く、多分これがソウルメイトというものなのだろう、と感じている。でもべつに、親友たちの中に優劣はない。みんな最高だから。

 

 生活レベルも、生きてきた世界も、学校という世界から出れば全く違うかもしれない。でもたしかに、彼女たちは私を、お互いを否定しない、優しい関係だと思う。まあある意味で、相手の生き方に干渉しないというクールさもあるかもしれないけど。

 

 彼女たちの働き方や、子どもへの対応を見ると、都会の逼迫した価値観とはまったく違い、さすが北海道、アメリカっぽい世界だなと思う。特にお金がなくても食費について深く考えない、たくさん買いよく食べるの、アメリカと北海道の共通点だと思う。

 

 でもなにより、北見に帰ってくると(父親の存在と過去のいじめを無視すれば)感謝しか感じない。

 毎回ほとんど親友の誰かが空港まで迎えに来てくれること、子どもたちに会わせたいと思ってくれること、1人で食事をとることがないほど誰かしら一緒にいてくれること。無論、自分が都会に住めていることへの感謝も感じてしまうが・・・

 この山の中に来るまでに見えた紅葉は、本州と比べるとなんかギラギラしていてコントラストが激しい色で、けばけばしい。でもそれがとても懐かしい。

 空港に飛行機が降り立てば「ただいま」と呟き、帰りは飛行機が飛び立つと少し泣いてしまう。

 外の空気の匂いに、懐かしさしか感じない。

 

 母は「あなたの故郷は名古屋だ」と不服だろうが、私の故郷は間違いなく北海道だ。

 大嫌いで、愛しい北海道。

 

 親友たちと会えるのが次はいつかわからない。でも私たちは、一週間後には会うかのように、ただ普通に別れた。

 死ぬときまで、この関係が続けば嬉しいし、人生でこんな友人を3人も持てたことを幸福に思う。

 

 とりあえず、おばあちゃんとの生活というサバイバルを生き抜こう。

 

 

 

焼肉は気のおけない人と食べないと

 

Mixed Nuts

 お医者さんにも、母のような存在を多分数多く見てきた学校の先生にも、母と暮らすことについて「避けたほうがいい。いい結果は生まない」と言われていた。妹にさえ、直接的でなくシニカルに、「無理でしょ」というのを言われていた。

 

 でもこれからの人生、母と暮らさざるを得ないかもしれない。母は歳をとり、年々頑固になって話を聞かなくなるだろう。今は避難場所として祖母のところがあるけれど、それを失ったら私は嫌でも母と暮らさなくてはならない。そう考えたとき、今から母と暮らして一刻も早く、お互いが妥協しあえる関係になるべきだと思った。

 

 理由はそれだけではないと思う。うまくいかない母とうまくいく関係になりたい。多分それが一番大きい本心だろう。諦めたくないのだ。母とわーわー言いながらも、暮らせる関係になりたい、家族になりたいと。

 

 ということで、私は家に帰った。そして頃合いを見て、要望書を出した。2時間かけて作ったその資料は、特にお金の項目については母の逃げたいものだったかもしれない。実際「話し合うために喫茶店に行こう」と言っても嫌な顔をされて、約1週間は引き延ばしていた。

 

 でも私としてはあっけないほどに、生活についての要望や家事の担当はサクサク決まり、母もそんなに文句を言わなかった。お金についても、お互い同じ金額ずつ妥協して決まった。簡単だったわけではないが、思ったほどではなかった。

 

 工夫を凝らした私の文章がよかったのか、少しでも相手が身構えないようにと描いたモフモフがよかったのか、内容が母にとって公平だと思えるものだったのかは分からない。でも少なくとも、家事を分担すること、せめて私の食事中はテレビを見ずに会話をすること、私が洗濯したいといった細々したことは、ほとんど要求が通ったと言ってもいいぐらいだった。

 

 ということで、今日は私がご飯を作り、テレビを見ずに食事をした。アボカドとチキンのサラダに、ナスのパルミジャーノ、パン。

 KALDIのエマルジョンドレッシングが美味しくて、巨大サラダにハマっている。ニューヨークの美術館で食べて感動したナスのパルミジャーノに真剣に初挑戦したが、メイン級の食べ応えで、なかなか成功したと言ってもいい味だった。おばあちゃんにも食べさせたいと思う。

 「これはワインが必要よ」と母も機嫌がよかった。サラダが母には大きすぎた気がするが。

 

 母のアマチュアオーケストラの話、妹の話、取り留めもないこと・・・でも今の母との会話で絶対避けられないことがある。マンションの管理組合と、おじいさんたちの勝手に作った修繕委員会の話だ。

 

 母もひどい目にあったし、愚痴を言いたくなるのもわかる。現在進行形で相手はあほなことをしているし、それに最近仲のいいマンションの住人が闘う姿勢を示している。となると、母は巻き込まれるしかないだろう。

 

 でも、疑問だった。母は「やられるから闘わないと。それが世の中ってものよ」と言いながら、愚にもつかない、多分どうやったって止めることのできない、おじいさんたちの暴走に付き合い、ひたすら愚痴を言い、負のオーラを出し続ける。

 私は「この人暇だからこんな巻き込まれてるのかな?」「父親がこっち向いてくれるからだろうか?」と謎に思っていた。

 

 今日も、私が「そんなことまで・・・?」と引いていると、半分キレ気味に「じゃあどうすればよかったの?」と聞かれた。また叫ぶような言い争いになったら嫌だなぁ・・・と思っていたのは私だけではないだろう。

 

 だから私は、母を否定しないよう、人には様々な意見があり、あなたの考えは間違いではないんだよ、というのを前提にしながら、「私なら赤の他人になる。マンションの管理がどうこうなんて、行く末なんてそんなに興味ないし、その人たちと関わって自分の心が消耗するのが嫌。それなら挨拶だけする、赤の他人の、ただのご近所になる。それをしないママは正義感があるから、そんなに闘おうとするんじゃないかな?」と言った。

 

 けっこう危ない橋を渡る会話だったと思う。私の他人事みたいな猫撫で声みたいな話し方は不自然だったと思うし、でもその中で私はけっこう言いたいことを言った。ただ、あくまでも母を傷つけないよう、かつ、否定しないようにしながら。

 

 すると会話の中で母は言った。

「何ていえばいいんだろう・・・でも知識があって、世の中には法律があるわけじゃない。それを守れない人を見ると、ルールを守らない人をみるとそれは間違ってるからおかしいと思うの。だから私は正しいことを言わなきゃいけない。だって相手が間違ってて、ルールっていう正しい守らなきゃいけないものがあるんだから」みたいなことを話し始めた。

 

 なんか、何で母がこの管理組合と修繕委員会について固執するのか、なんとなくわかった気がした。

 

 母は法学部出身で、いまだにポケット六法を毎年買っている。大学時代のに学んだなんちゃら法に関する話が出れば、ウキウキと会話し始める。

 そして母は、あまり学校に行き慣れていない。社会に働いて出たこともない。ルールを平然と、当然のように破る人間の行動をあまり知らないのかもしれない。

 

 私は、関西の学校に出たことで、ルールを平気で破る人、万引きみたいな行為を犯罪とも悪いとも思わない高校生も、まあ社会的ルールを大事と思わない人間なんて山と見てきた。そもそもバイトなんかに出ると、いや、学校の校則でも、意味があるのか分からないルールはある。人によってルールを破ったり、必要としない人なんていくらでもいるし、当たり前だと思って生きている。

 

 つまりのところ、母はYESかNOか、正しいか間違っているか、それしかない世界で生きているのかもしれない。

 そして母の持つ資格や知識の幅が余計に正しいか間違っているかのジャッジをさせて、あのおじいさんたちのやることが間違っている、ということにしか思えないのだろう。

 

 いや、誰がどう見てもあのおじいさんたちがやっていることは間違っているんだけど・・・でも母の「間違っているから正さなきゃ、闘わなきゃ」というのもなかなか難しい気がする。なぜなら世の中、いくら正そうとしても、相手は間違っているなんて気づかないから。家族でも友人でもない他人ならなおさら。

 

 だから大体人はグレーな位置でお茶を濁す。私もそうするタイプ。紙で賛成か反対か聞かれたら自分の考えに従ってどちらかに丸をつけるけど、その後出された結果には多少の愚痴は身内に言おうとも、外向きにはああそうですか、となるタイプ。

 そして相手が何かしてきたら、落ち込む傷つくは置いといて、闘おうとは思わない。だって相手は私が闘おうとしたところで、絶対自分の考えは曲げないから。何もせずほっとくタイプ。

 

 母からすればそれは泣き寝入りで、余計に舐められるという。でも私は世の中にはグレーにしておいて、お茶を濁したほうがいいことがいくらでもあると思う。そこには正しいも間違っているもないのだ。闘っても決着がつかない、自分の心を消耗するだけのときもいくらでもあるから。

 

 私は母に言った。「ママの行動が間違ってるとは思わないし、ママの考えたようにすればいい。でも、何も変わらない相手に心を消耗して文句を言い続けるなら、自分が幸せになることをしたほうがいいと思う」

 

LIFE is SHORT.スヌーピーの名言にもあるだろう。「僕は僕を大好きでいてくれる人を大好きでいるだけで忙しいから、僕のことを大好きじゃない人の相手をする時間はないんだ」的なの。

 

 まあ母はまだ何か言いたそうだったが、こっちの気持ちを汲んだのか、バツが悪くなったのか、喧嘩したくなかったのか、テレビを見出しました。

 

 こうやってお互いの距離を掴んでいくのだろう、と、叫んで喧嘩しなかった母に感慨深くなりながら、でもやっぱり話さないと分からないことはあるのだなあというのはしみじみと思ったのでした。

 母の正義感、知識、そして世間知らず。それゆえに、どうしてもあのおじいさんたちを無視できない。

 

 人の言うことを否定しないことって大事だな、というのが身に染みながら、こうやって円満じゃなくとも、お互いを知ることのできる家族になっていくのだなぁ、と私は思います。

 アメリカドラマに染まった私と妹は話すことでお互いをよく知り、問題解決をするタイプ。我が父と母はろくに話し合いもできずに、話せば喧嘩勃発なタイプ。だから、話すと自分が否定されて負かされるだけ、と母は思って生きてきたんだろうな。そんな気持ちがなくなって、話すことが大事だと、思えるようになってくれたらいいな、と、娘は密かに願っているのです。

 まあこれだって、私の押しつけって見方もできるけどね!世の中はグレー!

 

 

誰の人生も、愛と楽しみに満ちるといいね。

 

Don't Stop Believin'

 このブログを書かなくなって随分経つが、世界は相変わらず戦争といった争いに満ちていて、日本は相変わらず税金のための労働に苦しんでいる。

 

 そうこうしているうちに、私はあれよあれよと東京の専門学校を無理になり、気づいたら新しい学校のために名古屋にいた。去年のブログが11月で途切れているが、実質2月前には引っ越しも新しい学校の目処も立てていたのだから、自分の持つスピード感にびっくりしている。逃げるときは早いのだ。

 

 新しい学校はそこそこ楽しかった。気の合う友達もできたし、たまにクラスメイトと帰り道にご飯やお茶したり、久しぶりの恋もした。

 でも気が合うと思っていたクラスメイトにはなんか謎の裏切られ方をして無視されるようになったし、恋した相手は去年婚約者が自殺してとても新しい恋に踏み出せる様子じゃないし、その恋にまつわる女子の問題で、嫌がらせやクラスでハブられるようになった。

 正直何歳だよ、とその子どもっぽさにうんざりしたし、愛知県付近の幼稚な人付き合いの方法に辟易した(クラスメイトのほとんどが名古屋ではなく名古屋以外の愛知や岐阜から来ているから、彼らの人付き合いは都会人ではない田舎臭さを持っていると思う)。夏休みに入ってあの教室にもう一度帰らなければいけない、と思うと調子が悪くなったし、手術で実習に行く、行かないで先生や親と揉めて、夜中に「死にたい」と泣き始めたこともある。適応障害がバッチリ出て、私はわりと限界だった。

 

 妹に「医者にしんどい、と言って実習は無理というお墨付きをもらえ。そうしないと無理だ」と言われた言葉にそれしかないと思い、婦人科で痛みやしんどさを訴えて、「実習はやめといたほうがいいんじゃないかな〜」という軽いお墨付きをもらった。そして気持ちが限界だと、心療内科に訴えた。言われた言葉は「みあさんは、何も悪くないんですよ」という言葉だった。

 

 正直、意外な言葉だった。とてもシンプルだけど、心療内科医から出たことのない言葉。

 でも私の心を、とても軽くする言葉。

 

 そこから少し考えて、私は障害者手帳のための診断書をお願いした。30歳まで頑張ってもがいた私は、もう頑張れないと思った。

 

 普通の人のように、一人前に稼いで、自立しなければいけないと思っていた。それが自立だと思っていた。

 

 学校で先生に「みあさんの考える自立ってなに?」と問われたことがある。私はしどろもどろと、「食事を自分で準備できて、薬を飲めて、一人でできる・・・」と答えつつ困ってしまった。すると先生は「人の手を借りたら自立とは言わないんですか?人の手を借りても生きられたら、それは自立じゃない?」と言った。

 

 びっくりした。それまで私は、誰にも迷惑かけず、一人でなんでもできるようになることが自立だと思っていたから。そう思わされて、世間で生きてきたから。

 

 世間のほとんどの人が、「自立とはなんですか?」と問われたら、同じようなことを言うだろう。少なくとも今の日本ではそういう空気がある。一人で誰にも迷惑かけずに生きること。

 

 でも改めて考えると精神を病んだ人に限らず、それって無理な話だと思う。おじさんの説教みたいだけど、人間って一人で生きていない。誰にも迷惑かけてないと自分では思っていても誰かに迷惑かけてるし、お世話になってるし、実際のところ一人で生きている人はたぶん、まずいない。レジでお会計すれば、誰かのお世話になってることになるよね。

 

 私は初めて、ああ、一人で頑張って自立を目指さなくてもいいんだ、と思った。

 

 とは言えど母と暮らすのは困難だし、周囲の人から「本当に障害者手帳をもらうのか?そんなにお前はおかしい奴なのか?」と思われていて、「よく考えろ」と言われる。私からすれば5年近く障害者手帳から目を背けてきたから、もう取りどきだと思っている。

 

 普通のお給料はもらえないかもしれない。

 一人暮らしできるお給料はもらえない。

 障害者というだけで結婚相手は現れないかもしれない。

 ある日突然、あなたの症状は軽いからと障害者手帳を切られるかもしれない。

 

 不安なんて尽きない。でも人生は不安があって当たり前だ。

 私は障害者手帳を取らなければいけないほど、不自由な時代に生まれてきただけだ。

 

 彼のことを好きな、私に嫌がらせをしてきた女の子は、私が新学期にいなくて喜ぶだろう。

 でも私がいなくなるのを「いやだ!」と言ってくれた子もいる。

 彼はなんだかんだ、「新学期になったらいつも通りお茶しよう」とも言ってくれた。

 

 それでいいじゃないか。

 

 叔父に話をしたら意外なことに、周囲の人間で妹以外では一番冷静に話を聞いて、納得してくれた。「それが落としどころかもな」と、働いている人ならではの目線に気持ちが楽になった。

 同時に自分の勤めている会社の中の障害者雇用について少し知っていることを話してくれ、「今は企業の大きさごとに障害者の雇用義務があるだろ?日本最大といってもいい企業だから人数が多くて、ノウハウはしっかりしているぞ」と、新しい希望もくれた。

 

 ちいかわの「やりたいことリスト」のノートに1年以内にやりたいな、と思っていることを100個書き出して、日々やりたいことを見つけている。やりたいことを細分化したり足していくと全然足りなくて、書き足したりしている。

 なにも目標がないのもな、と思い、資格でも取ろうか、でも役に立つより自分の学びたいことをしたい、と、いくつか資格の取得を考えている。趣味なので食生活アドバイザーとか世界遺産検定とか、楽で簡単な試験のものばかりだが、とりあえず腕ならしにアロマテラピー検定の応募をした。

 毎日広告とにらめっこして、祖母と「なにを食べようか」と相談をしながら買い物に行く。作ったものを祖母が「美味しい」と食べてくれると何より嬉しい。

 スタバの新作に心躍らせて、買い物の帰り道に買ってきたりする。おさつバター、狂気の味。

 大阪の親友から、欲しかったけど無理だと諦めていたちいかわと阪急のコラボグッズが届いた!ももんがのぬいぐるみキーホルダーまで!北海道や福岡の友達からも心配と安堵の声が聞こえて、友人に恵まれていることに本当に嬉しくなる。

 

 私は世間一般の自立から程遠いかもしれない。

 でも辛かったら相談できる友人がいて、望みは薄いけど好きな人がいて、父親はいないも同然だけど、愛してくれる家族がいる。大好きなジャニーズもいる。

 それで十分じゃないか。私の人生は充実しているし、大好きなもので溢れているし、新しい発見があるし、それなりに楽しく日々を生きている。他になにを望む?

 

 高望みならいくらでもあるかもしれない。高みを目指したら人間はどこまでも見えてしまう。

 でも私は日常を愛している。たまに旅ができれば最高だけど、それはできる日まで取っておきたい。

 

 なににしろ、言うべきはひとつだ。

 Don't Stop Believin'!!!

 

気持ちはいつでもWelcome To New York!