分別奮闘記

 キャサリン妃がガンを公表したらしい。そんなニュースと、叔父がガンで亡くなったときに「叔父夫婦の歌だな」と思ったBUMP OF CHICKENの飴玉の唄の歌詞を上げているフォロワーがいて、なんとなくもの悲しい気持ちになって、久々のブログに手が伸びた。

 この「飴玉の唄」は私にとって命の歌みたいなもので、人間の死や別れへの恐怖心、依存心をよく表現しているなと思う。希死念慮がひどいときや、白血病の疑いがあった時期はよく聴いていた。逆にいうと、何かがなければ聴けない、箱の中に閉じ込めておく曲。

 

 叔父の死は、私の人生においてけっこうショッキングなことにいまだランクインする。べつに叔父と親しかったわけではないし、叔父は人に好かれるが、その反面人の気持ちを平気で無碍にする、薄情で無惨な人だったと思っている。叔父は早く死んだから、伝説となり人からいまだ愛されるのだ。

 

 でも、叔母の愛は本物だったと思う。

 皆が急な葬式に慌てふためくなか、中学生で何もすることがない私は、家で使っていた布団に寝かされた叔父をひたすら眺めていた。ああ死んだのか、と変にしっくりして、しかし現実味がなかった。

 そこにふと手の空いた叔母が現れて「寝てるみたいでしょ?」と普通に話しかけてきた。泣き続けて声も出なくなった祖母とは違い、叔母はときに笑顔も見せながら、喪主としてするべきことをこなしていた。でもそのとき、叔父の頬を撫でながら「ねえ、寝過ぎだよ、起きてよ、ねえ」と泣きはじめたのである。

 

 本当に一瞬の出来事。

 誰も気にしていなかった。だれも寄ってこなかった。叔父の遺体と叔母と一緒に、異空間に閉じ込められたのかと思った。

 

 そのあとあまりはっきり覚えていないが、叔母は持ち直して去っていったと思う。

 でも、その日その公民館に泊まっていた叔母は、皆が寝静まったなかで、あの広い空間で、叔父のそばでひたすら泣いていたという。「その姿を見るのが本当につらくて・・・」と話す叔母に父の言葉に、叔母は「やめてよ」と子どもみたいに泣きじゃくった。親の前で、普段はあっけからんとした叔母が、まるで子どものように見えた。

 

 べつにこれは叔父と叔母の感動物語だと思ったわけじゃなかった。

 ただ、愛した人を、夫を失くすというのはこういうことなんだと、私の中でただ印象に残っている。

 

 同時に母が陰で、悲しむ以前に「あのひとはいい。だって働いて稼げるんだから」と憎々しげにというか、悔しそうにというか、少なくともその場に似つかわしくない雰囲気で言っていたのが記憶にあるからだろうか。

 

 祖母と祖父が、すごくつらそうにしながら、泣きながら、もう出なくなった声でまず最初にしたのが叔母の両親に土下座して「本当に申し訳ございません」と謝ったことに、「あなた達が子供を失ったのに、なぜ今謝るのか」と思ったからだろうか。

 

 あの父が、棺に入れる最後の儀式の時には、泣くこともしない、ただ「ア・・・ア・・・・」と言いながら、立てなくなっていたからだろうか。

 

 少なくともいろんな人がそこで社会的地位向上の争いをして、親族は蔑ろにされて、一つ一つが揉め事となり、ときに叫び声が響いたあの一週間くらいは、狂乱のパーティーのようだった。子どもだった私にとって、大人の欲に狂ったパーティー

 

 叔母は叔父の骨をネックレスにして、日々つけていた。

 久々に去年会った時は、叔父のぶんの結婚指輪まで、重ねづけしていた。

 

 本当に好きだったのだなと思う。

 その反面、叔父が生きていたらこうではなかった、と思う気持ちもあるが。

 

 そのことについて私は祖母に「いまだにおじちゃんの結婚指輪までつけて、会いたいって言ったら来てくれて、いいお嫁さんだよね、ほんと」と言った。

 

 「私はそうは思わない」が祖母の答えだった。

 

 要するに、叔父が生きていたときにしてくれた、自分を旅行に連れていってくれる、花火の時なんかは釧路で1番のホテルから見れるように部屋を予約して呼んでくれる、みたいなことをしてくれないし、嫁として尽くしてもくれないというのだ。

 

 今でも祖母の誕生日には何か贈ってくれて、孫の節目の写真や成績表を送ってくれて、祖父の命日の頃には花を贈ってくれて、いまだに再婚もせず、叔父との子をまともに育て、結婚指輪を重ねづけしてくれる叔母に、なんの文句があるのだろうか。

 

 私があまり有名じゃない大学に入学したときに、辞めさせて結婚させようと平気で思っていた祖母の行動以来、久々にひどい嫌悪感を感じた。

 

 祖母のことは気掛かりである。北海道の山に1人で暮らして数年単位でしか会えず、残った息子は最低なうちの父親。

 母方の祖母とかなり密に過ごしているぶん、負い目みたいなものがあった。

 

 が、全部消えた!

 

 何をしても文句は言う!

 私の人生より自分の価値観!

 

 そしてなにより、どう考えても父の行動は家族を破壊しているのに見て見ぬふりをして無視してきたり、「あなたのお母さんがおかしいし、あなたが自立してないから」と自分に都合よく考えるところが本当にしんどかった。

 どんなに現実を話しても素知らぬふりをしたりする。

 「釧路にでも住もうかな」と言ったら「お金がかかる、北見の実家に暮らしなさい」と言うから「そんなこともうできなくない?」と言えば、「そこをうまくやるのよ!」と言われたときには、ああ、この人現実が見えてないんだな、としみじみ思った。

 父のしたことを話せば「今度はもっといい話持ってきて」とか平気で言うしね。

 

 祖母の介護というか看取りというか、というのは、長年ネックだった。

 父がやり切れるか疑問だし、むしろ私に丸投げする気だと思うし、まあ、それなりに愛してくれた祖母を見捨てるみたいで「やらない」という選択肢をあまり考えてなかった。

 

 でも結局、この人は父と並んで究極の自己中なのだ。

 人に何かをしてもらうのが当たり前で、してもらえばもらうほど「もっと!」となる。父とそっくりだ。

 

 つまり私は、関われば永遠に搾取され続けることになる。そんな人は、親族でも避けるべき。

 

 今回、猫アレルギーに苦しんでるのを無視されながら、二週間近く祖母の家にいた。もう充分!死ぬ前に祖母孝行はした!

 

 もうこれ以上、祖母に何かする必要はないと思っている。月に一回くらい電話するとか、死目に会いに行くくらいはするが、献身的な行動はしたくない。

 

 私はいろんな夢を経て、今掲げているのは「愛でいっぱいの人生にすること」である。

 今までの自分本位な、職業とかの夢からは外れたけど気に入っている。人に愛を注いで、人を愛し、まああわよくばこちらも愛をもらって愛に満ちた人生を送る。

 父や祖母には無縁のものだと思う。

 そしてシビアな話をすると、あわよくば、の愛をもらえなきゃ、要するにキャッチボールをしなければ自分がしんどいので、キャッチボールできる相手と付き合って、愛でいっぱいにしたいと思う。それが現実的。

 そして、そのなかに父はいないし、祖母もあまり入っていないみたい。

 

 こんなとき、「私もいろいろ必要なものといらないもの、分別できるようになったんだなぁ」としみじみする。

 こうやって大人になって、人生を研いでいくのだな、と思います。

 

 

愛でいっぱいにして、楽しく生きていきたいね