Mixed Nuts

 お医者さんにも、母のような存在を多分数多く見てきた学校の先生にも、母と暮らすことについて「避けたほうがいい。いい結果は生まない」と言われていた。妹にさえ、直接的でなくシニカルに、「無理でしょ」というのを言われていた。

 

 でもこれからの人生、母と暮らさざるを得ないかもしれない。母は歳をとり、年々頑固になって話を聞かなくなるだろう。今は避難場所として祖母のところがあるけれど、それを失ったら私は嫌でも母と暮らさなくてはならない。そう考えたとき、今から母と暮らして一刻も早く、お互いが妥協しあえる関係になるべきだと思った。

 

 理由はそれだけではないと思う。うまくいかない母とうまくいく関係になりたい。多分それが一番大きい本心だろう。諦めたくないのだ。母とわーわー言いながらも、暮らせる関係になりたい、家族になりたいと。

 

 ということで、私は家に帰った。そして頃合いを見て、要望書を出した。2時間かけて作ったその資料は、特にお金の項目については母の逃げたいものだったかもしれない。実際「話し合うために喫茶店に行こう」と言っても嫌な顔をされて、約1週間は引き延ばしていた。

 

 でも私としてはあっけないほどに、生活についての要望や家事の担当はサクサク決まり、母もそんなに文句を言わなかった。お金についても、お互い同じ金額ずつ妥協して決まった。簡単だったわけではないが、思ったほどではなかった。

 

 工夫を凝らした私の文章がよかったのか、少しでも相手が身構えないようにと描いたモフモフがよかったのか、内容が母にとって公平だと思えるものだったのかは分からない。でも少なくとも、家事を分担すること、せめて私の食事中はテレビを見ずに会話をすること、私が洗濯したいといった細々したことは、ほとんど要求が通ったと言ってもいいぐらいだった。

 

 ということで、今日は私がご飯を作り、テレビを見ずに食事をした。アボカドとチキンのサラダに、ナスのパルミジャーノ、パン。

 KALDIのエマルジョンドレッシングが美味しくて、巨大サラダにハマっている。ニューヨークの美術館で食べて感動したナスのパルミジャーノに真剣に初挑戦したが、メイン級の食べ応えで、なかなか成功したと言ってもいい味だった。おばあちゃんにも食べさせたいと思う。

 「これはワインが必要よ」と母も機嫌がよかった。サラダが母には大きすぎた気がするが。

 

 母のアマチュアオーケストラの話、妹の話、取り留めもないこと・・・でも今の母との会話で絶対避けられないことがある。マンションの管理組合と、おじいさんたちの勝手に作った修繕委員会の話だ。

 

 母もひどい目にあったし、愚痴を言いたくなるのもわかる。現在進行形で相手はあほなことをしているし、それに最近仲のいいマンションの住人が闘う姿勢を示している。となると、母は巻き込まれるしかないだろう。

 

 でも、疑問だった。母は「やられるから闘わないと。それが世の中ってものよ」と言いながら、愚にもつかない、多分どうやったって止めることのできない、おじいさんたちの暴走に付き合い、ひたすら愚痴を言い、負のオーラを出し続ける。

 私は「この人暇だからこんな巻き込まれてるのかな?」「父親がこっち向いてくれるからだろうか?」と謎に思っていた。

 

 今日も、私が「そんなことまで・・・?」と引いていると、半分キレ気味に「じゃあどうすればよかったの?」と聞かれた。また叫ぶような言い争いになったら嫌だなぁ・・・と思っていたのは私だけではないだろう。

 

 だから私は、母を否定しないよう、人には様々な意見があり、あなたの考えは間違いではないんだよ、というのを前提にしながら、「私なら赤の他人になる。マンションの管理がどうこうなんて、行く末なんてそんなに興味ないし、その人たちと関わって自分の心が消耗するのが嫌。それなら挨拶だけする、赤の他人の、ただのご近所になる。それをしないママは正義感があるから、そんなに闘おうとするんじゃないかな?」と言った。

 

 けっこう危ない橋を渡る会話だったと思う。私の他人事みたいな猫撫で声みたいな話し方は不自然だったと思うし、でもその中で私はけっこう言いたいことを言った。ただ、あくまでも母を傷つけないよう、かつ、否定しないようにしながら。

 

 すると会話の中で母は言った。

「何ていえばいいんだろう・・・でも知識があって、世の中には法律があるわけじゃない。それを守れない人を見ると、ルールを守らない人をみるとそれは間違ってるからおかしいと思うの。だから私は正しいことを言わなきゃいけない。だって相手が間違ってて、ルールっていう正しい守らなきゃいけないものがあるんだから」みたいなことを話し始めた。

 

 なんか、何で母がこの管理組合と修繕委員会について固執するのか、なんとなくわかった気がした。

 

 母は法学部出身で、いまだにポケット六法を毎年買っている。大学時代のに学んだなんちゃら法に関する話が出れば、ウキウキと会話し始める。

 そして母は、あまり学校に行き慣れていない。社会に働いて出たこともない。ルールを平然と、当然のように破る人間の行動をあまり知らないのかもしれない。

 

 私は、関西の学校に出たことで、ルールを平気で破る人、万引きみたいな行為を犯罪とも悪いとも思わない高校生も、まあ社会的ルールを大事と思わない人間なんて山と見てきた。そもそもバイトなんかに出ると、いや、学校の校則でも、意味があるのか分からないルールはある。人によってルールを破ったり、必要としない人なんていくらでもいるし、当たり前だと思って生きている。

 

 つまりのところ、母はYESかNOか、正しいか間違っているか、それしかない世界で生きているのかもしれない。

 そして母の持つ資格や知識の幅が余計に正しいか間違っているかのジャッジをさせて、あのおじいさんたちのやることが間違っている、ということにしか思えないのだろう。

 

 いや、誰がどう見てもあのおじいさんたちがやっていることは間違っているんだけど・・・でも母の「間違っているから正さなきゃ、闘わなきゃ」というのもなかなか難しい気がする。なぜなら世の中、いくら正そうとしても、相手は間違っているなんて気づかないから。家族でも友人でもない他人ならなおさら。

 

 だから大体人はグレーな位置でお茶を濁す。私もそうするタイプ。紙で賛成か反対か聞かれたら自分の考えに従ってどちらかに丸をつけるけど、その後出された結果には多少の愚痴は身内に言おうとも、外向きにはああそうですか、となるタイプ。

 そして相手が何かしてきたら、落ち込む傷つくは置いといて、闘おうとは思わない。だって相手は私が闘おうとしたところで、絶対自分の考えは曲げないから。何もせずほっとくタイプ。

 

 母からすればそれは泣き寝入りで、余計に舐められるという。でも私は世の中にはグレーにしておいて、お茶を濁したほうがいいことがいくらでもあると思う。そこには正しいも間違っているもないのだ。闘っても決着がつかない、自分の心を消耗するだけのときもいくらでもあるから。

 

 私は母に言った。「ママの行動が間違ってるとは思わないし、ママの考えたようにすればいい。でも、何も変わらない相手に心を消耗して文句を言い続けるなら、自分が幸せになることをしたほうがいいと思う」

 

LIFE is SHORT.スヌーピーの名言にもあるだろう。「僕は僕を大好きでいてくれる人を大好きでいるだけで忙しいから、僕のことを大好きじゃない人の相手をする時間はないんだ」的なの。

 

 まあ母はまだ何か言いたそうだったが、こっちの気持ちを汲んだのか、バツが悪くなったのか、喧嘩したくなかったのか、テレビを見出しました。

 

 こうやってお互いの距離を掴んでいくのだろう、と、叫んで喧嘩しなかった母に感慨深くなりながら、でもやっぱり話さないと分からないことはあるのだなあというのはしみじみと思ったのでした。

 母の正義感、知識、そして世間知らず。それゆえに、どうしてもあのおじいさんたちを無視できない。

 

 人の言うことを否定しないことって大事だな、というのが身に染みながら、こうやって円満じゃなくとも、お互いを知ることのできる家族になっていくのだなぁ、と私は思います。

 アメリカドラマに染まった私と妹は話すことでお互いをよく知り、問題解決をするタイプ。我が父と母はろくに話し合いもできずに、話せば喧嘩勃発なタイプ。だから、話すと自分が否定されて負かされるだけ、と母は思って生きてきたんだろうな。そんな気持ちがなくなって、話すことが大事だと、思えるようになってくれたらいいな、と、娘は密かに願っているのです。

 まあこれだって、私の押しつけって見方もできるけどね!世の中はグレー!

 

 

誰の人生も、愛と楽しみに満ちるといいね。