オタクをする喜びと哀しみ。それは自虐趣味。

 学校生活にも慣れてきて、授業終わりには夜の散歩。隅田川付近を歩くと屋形船や古くて小さな店があったりして楽しいこの頃です。そしてリバーサイドが夜になっても走ってる人やカップルがいたりして危なくない。大阪なら間違いなく夜のリバーサイドなんて危険で歩けたものじゃないのにな、東京は安全な街だな、と驚くばかりです。

 

 そんな散歩道、今日はキンプリの曲をひたすら聴いていました。別に東京の下町に似合う曲じゃないんだけど。多分渋谷とか恵比寿みたいな、ジェシーが出没しちゃうような街に似合う曲ですよね。キラキラ。

 

 そんな曲を聴いていると思うのはオタクのつらさ。

 オタクは偶像崇拝。あくまでアイドルや俳優の顔をしてる彼らの顔を見て喜んでいる。それでも彼らの真実に迫りたいと思うからこそ、私生活の話が尊ばれて、夢小説が生まれているのが現実だろう。

 

 彼らの曲を聴きながらふと思うのだ。私は彼らの何を知っているのだろう。本当か嘘かもわからない話をする雑誌を買い漁っても、俳優をしているドラマを見ても彼らのことをこれっぽっちもわかっていないはずだ。だって偶像崇拝だから。彼らだって偶像としてのキャラクターを私たちに見せているわけだから。

 密かに尊敬しているオタクの先輩の言葉を借りると、「ナマの人格のまま俳優やアイドルなんかやろうとしたら、1日で精神が死ぬと思う」なのだ。その通りだと思う。

 

 でも、だからこそ、真実を知りたいと思う。彼らの素の部分を垣間見たい。あわよくばその魂に触れてみたい。

 

 見たいけど、見れない。だから雑誌を買い漁り、出演作を見て、ラジオを聴く。ときに人の妄想を見てイメージを補完する。

 

 それでも彼らの本心なんてこれっぽっちも見えなくて、哀しくなる。自分の買い集める雑誌にどれほどの価値があるのかわからなくなって泣きたくなる。

 

 でもそれをすべてひっくるめた先までが、アイドルなのだ。もっと露悪的な言い方をしたら、それが商売だ。

 見えないものを見たくて余計に見る。お金を落とす。もっと見たくなる。それを繰り返して幸せになって、たまに哀しくなる。それだけのことなのだ。

 

 余談だが、たまに素の彼らが見たいのか、偶像の彼らが見たいのか分からなくなるときがある。それは素の彼らを見ても愛せるのかとか、表向きの彼らしか好きじゃないのではとか、愛を試されているような気持ちになる。考えるだけ無駄な話なんだけどね。

 

 オタクを現実の人間関係からの現実逃避だという人もいる。

 でもオタクはやっぱり自分の趣味の中でも、人と対峙しているのだ。相手から自分が見えないつらさと、その気楽さを抱えながら楽しくなったり哀しくなったりして生きている。それは人間関係の悩みじゃない、とは言えないと思う。永遠の片想いだけどさ。

 

 ふとした瞬間に決して彼らの本心を知ることができないことに哀しみながら、それでもやっぱり彼らのことが好き。

 つくづく自虐趣味だな、と笑ってしまいたくなる。

 

 行き過ぎた感情になるとこれがストーカーという異形の形になるのだとなんとなくわかる。

 でも私は彼らが好き!と思っても、他のファンのほうがもっと深い愛を持っているだろうと何となくスン、と現実を見てしまうので、ストーカーにはならないだろうという謎の安堵を抱えている。

 しかしながら、ジャニオタをしながら彼氏や夫を持てるほど自分って器用じゃないな、とも思うのでジャニオタしてる限り結婚できないかもしれないという悩みは抱えている。

 

 そんな自虐趣味の痛みを持ちながら婚期を逃し、それでもオタクをする自分はドMの変態なんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょうね。オタクみんなドMでは?

 

 そんなオタクなみんなに幸あれ。

 GW映画館開いてないからコナン見にいけなくても、イベント制限が6月まで伸びて追加抽選が無駄になっても、みんな生きろよ!私も生き延びる!

 

 

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