先日、ドクターに言われた。
「君は生きる意義を持っていない。かわいそうなことだよ」
そしてその言葉には、「だから、君はどういう意義を持って生きていくの?」が込められていたと思う。
私はその言葉に「それは東京の人の感覚だよ」と反論したが、「全国同じだよ」と返された。
どうしても納得できなかった私は、ドクターが仕事中毒なのを前提として友人4人に生きる意義について問うた。わりとみんな真面目に返してくれて、そのうち3人の女友達の回答を祖母に送った。なかなかみんなすごいでしょ?と。
祖母のレスポンスの中に「そもそも生きる意義って必要なものだろうか?」という言葉があった。
正直思った。
うん、それな。
友達の一人は、こう言った。
お医者さんの中にも仕事を生きがいにしてる人ばかりとは限らないよね。今生きがいだってほど大事なものがない人は、きっとそれを見つけるのが今は生きる意義なんじゃないかな。
うん、それな。
友人や、多分ドクターも無意識に使っている「生きがい」と「生きる意義」。この2つは似て非なるものだと思う。
「生きがい」とはその人が生きるために必要としていること。そのために人生を生きているということ。
対して「生きる意義」とは、どこか空々しい。誰かから見られていて、「だから私は正しいでしょ?」と主張しているような言葉である。
「生きがい」が自己満足な目線を持っており、「生きる意義」とは他者の目線のようではないだろうか。
実際「意義」を辞書で調べると
行為・表現・物事の、それが行われ、また、存在するにふさわしい積極的な(すぐれた)価値。
とある。
「生きる意義」とは他者の許しを乞い、自分の価値を証明する行為なのではないだろうか。どこまでも他人目線で、自分の承認欲求を満たすための、表立った言い訳である、と考えることができるのではないか。
そう思うと「生きる意義」を必要としていて、他人にそれを求めちゃうドクターの哀愁を感じる気がする。かわいそうに。
4人のうち1人の男子は、「そりゃ地方都会問わず人によって生きる意義を考えるかどうかやろ」と言った。そして自分の仕事への意義を語り始めた。
「生きる意義」を求めるのは男性の性なのか?
やっぱり男性の性っぽい、と思いながら私の仮説は2つある。
一つは、女性が社会によって傷つけられることである。
女性なら誰もが、この男社会で女性ならではの差別や偏見に晒されたことがあるだろう。そのうちに社会的に認められる「生きる意義」を見出すことができなくなり、個人的な「生きがい」の世界に生きるようになるのではないか。
もう一つは、女性が「産む」性であることである。
出産は女性の人生を変える。ずっと面倒をみなければならない、いうならば生涯の生きる意義・理由が出産でできるのだ。そう考えると女性に必要なのは「生きる意義」ではなく個人的な「生きがい」である。
私個人の考えとしては「生きる意義」などいらない。生きるための「生きがい」は必要かもしれないけど。
だって人生なんて、生きてりゃ結果がついてくるだろう。意義なんて青写真唱える前に、目の前の人生本気で生きてみろ。
その結果が泣くことになっても笑うことになっても、それでいいじゃない。それが人生だもの。
「生きる意義」を最もらしく唱えて承認欲求を満たす前に、自分の煩悩だらけの欲を満たしてしまえ。それが犯罪や人を傷つけることじゃなければね。
私のドクターは、仕事が楽しいワーカホリックだ。正直なところ、言葉の端々から「本物の人生は仕事から」「仕事を充実させる人生こそ最高」というのが漏れている。
私はどう考えてもそうは思えない。世の中には専業主婦がいて、働いてない人がいて、まだ働く年齢でない人間と、仕事という義務を終えた人々がいる。そんなそこらじゅうに溢れている人間は、本物の人生を生きていないのか?否、誰もがそれなりのドラマを持って生きている。
それに働くだけが人生じゃない。生活手段として仕事を持ち、趣味に生きる人の何が悪いのだろう。
その辺りも不思議と東西の違いが結構あって、関西にいた学生時代は先生たちに「おまんま食うてかなあかんからな」と仕事の必要性を説かれた。それが東京に来ると仕事は「生きる意義」となっている。なんということだ!
私は今手に職をつけようとしている。それは食べていくためだし、稼いだお金で趣味や進学で人生を充実させるためである。
仕事が楽しい!と思えればそれに越したことはないけれど、基本的に人生を充実させるための糧として仕事を見ている。
こんなんじゃワーカホリックな「生きる意義」を見出したがるドクターと「生きがい」で生きていこうとする私は合わねえな、と転院を考えていますが、どうなるでしょう。乞うご期待。