Teenage Dream

 久しぶりにThe First Monday in May、邦題「メットガラ ドレスをまとった美術館」を見た。

 

 このドキュメンタリー映画はニューヨークのメトロポリタン美術館の服飾部門が1年間の経費を稼ぎ出すために行われるパーティー、メットガラと、そのパーティーに合わせて開催される特別展の準備をメトロポリタン美術館側と、アナウィンター率いるVOGUE側から撮られているものである。

 中国ファッションに関する特別展ということで、中国の政治の香りが濃すぎる部分も多い映画と特別展だが、博物館の人間がどのような想いを抱いてキュレートしているかが垣間見える部分、そしてファッションへの造詣が興味深くて繰り返し見てしまう。

 

 妹と見るのが恒例なのだが、ふと「そういえば前のドクターは私がディズニープリンセスに憧れてロリィタ服を着ていると思ってたみたい。それが現実逃避と受け取られたのかもね。カウンセリングの先生にそれを言ったら、『あなたはアーティスティックな部分があるから、そういうものを芸術として着ている』って言われて全くその通り、ドクターの勘違いすごいなと思ったよ」と話した。妹の返しは姉にもディズニープリンセスにも失礼な勘違いだな。さすが男子校育ち。」で、その通りなんだけどこいつの言葉はいつもシニカルだな、とぼんやり思った。

 

 

 服への思いは人一倍強い部分がある、と少し勘違いかもしれないが自負している。

 美術的なセンスは多分人より強いし、値段でアートを見ない数少ない日本人だと思う。(その昔、安藤忠雄がうちの大学に講演に来たとき、「日本の美術館は絵の値段を書けばよろしい。日本人は値段でしか絵を見れない。」と皮肉混じりに言ったのが印象的だった)

 

 昔の雑誌も今の雑誌も読み漁るのが大好きだし、道行く人のファッションにも感嘆する。安かろうが高かろうが、買わなくとも服屋のチェックをするのも好きだ。気になるブランドがあればネットですぐ調べるし、webサイトやオンラインストアをかたっぱしから見て空想コーディネートをするのも日常茶飯事である。

 

 そんな私が目指すのはアメリカ的リアルクローズである。

 リアルクローズ。生活するために着る日常的な服。

 たとえロリィタを着るにしても、私のテーマはリアルクローズだ。電車に乗って歩けない服は着ないのがモットー。

 

 昔、ANAの機内誌にあったエッセーで今も残してあるものがある。当時流行していたTORY BURCHを取り上げた記事で、活動的なアメリカ女性のリアルクローズとして紹介しつつ、その服の持つパワーとアメリカ女性の生き様について書かれていた。

 ヨーロッパのハイブランドコレクションのような、芸術としての服ではなく、活動的に生きるための服。ゆえにそれがとてもアメリカ的な服だと、述べられていた。

 

 

 そこに書かれた活動的な女性、というのが私の理想的な女性像で、私の目指すべき女性の姿はこれだ、と14歳くらいで小さいけれど、ずっと持っていく決心をひとつ見つけたのだ。

 

 芸術的なDiorのようなヨーロッパブランドのファッションももちろん好きだし憧れだが、生きていくときに等身大の自分でいれる、気兼ねなく使って持てるアメリカブランドが一番好きだ。少しポップで茶目っ気がある。平成生まれにとって多少なりとも馴染みのある姿かたちではなかろうか。

 

 ファッションはその人の生き様であり、個性であり、見てほしい自分の姿である、と私は思っている。

 果たして私はどんな自分の姿を演出しているのだろう?

 

 学校へ行く定番は、ミニのスカートパンツ(キュロット)にフワッとしたTシャツやトップス。それにパーカー。

 これは多分、学生的な自分を出している。

 動きやすくてちょっと落ち着きがなさそうで、身軽でいれる服。パーカーを脱げば、すぐ白衣を羽織れる服装。もう一方の見方では、ずいぶん若作り感があるかもしれない。身長や体系的に今流行のズドンとした直線的な服や、長いスカートが似合わないと思って選んでいた服だが、ある意味今の年齢にそぐわない学生という立場を服で表しているのかもしれない。

 

 ロリィタ服は、自分の個性を表す服。自由でいられる服。ある意味批判してきたり性的感情を持ってこようとする男性、彼氏のような存在がいないから着れる自由な服だと思っているし、どこもかしこもハイブランドの真似をした服を作る現代で、日本発祥、ハイブランドパチモノを作る必要のない個性あるブランドに惹かれている。

 嶽本野ばら曰く、「ここにレースとリボンをつけなければ10着作れるのに、それを9着にして余分にレースとリボンをふんだんにつける」服はデザイナーのスピリット、もしくは執念がが見える。それが気に入っている。

 スピリットある服を着るのは自分のスピリットを表す技。もしかしたら私は「人よりも情熱的」だと見せたいのかも?自由な人間である、とは表したいと思っていると感じてはいるが。

 同時にパニエを履いてスカートを膨らましながらてくてく歩く、そんな自由気ままな人間でいたい思いが多分、ある。

 

 今年の夏は新しい服を見つけた。バナナリパブリックで、ネイビーの長いキャミワンピースに白いTシャツ。長いのなんて私には無理、という観念を覆した。やはりアメリカブランド。

 高めのウエッジソールサンダルを履いて今年新調したDiorの濃いプラムのペディキュアをして、長いスカートをふわふわとさせて歩く。アメリカブランドだからだろうか、少し冒険に出るような、ワクワクさせてガシガシ歩く、そんな服だった。ネイビーは多分私に最も似合う色。大人しいふりをしてどこかに行ってしまう、そんな人間でいたい私にはぴったりな服だった。

 

 小物もそう。今の通学バッグのTORY BURCHはガシガシ使えるもので、そこにその時々でぬいぐるみやキラキラのチャームを変えて楽しんでいる。バッグはCOACHやKate Spadeが多く、圧倒的にアメリカブランドだ。

 夏につける時計はTime Will Tellで、自分で色パーツを組み合わせて作ったもので、ニューヨークから来たデザイナーさんが熱心にその組み合わせを見ていた、と母が嬉しそうだった世界に一つだけのもの。(余談だけど、母親って子どもが人から構われていると嬉しそうだよね)ひとつ気になるのは中国人留学生に「最高にかわいー!!!」と言われたことで、中国人のセンスは今ひとつだと思っている私は密かに微妙な気持ちになったものだが。

 

 今はなきヘンリベンデルで買ったバッグやアクセサリーはもはや宝物である。一つのガラスがキラキラする揺れるピアスは少しシック、大ぶりなモチーフのついた可愛いピアスは楽しい気分のときに、ジャラジャラチャームのついたロングネックレスは、たまにしか出てこない最強のアイテム。これをつけたら気分はもはやニューヨーカー。ただし死ぬほど重い。

 "Love"とついたネックレスは、大統領選でトランプタワーが思い思いにごった返した時に、「私たちは愛を提唱する」とトランプタワー目の前のヘンリベンデルがお店の壁をハートでいっぱいにしたときにその思いに共感して買ったもの。そんなブランドの精神を「買いたい」ときも多い。

 

 あ、靴だけは日本のブランドとフランスのスポーツブランドだ。でもアメリカのNINE WEST愛してる。

 

 なんか自己語りの取り留めのない文章となってしまったが、私はファッションが大好きである。自分を表現して喜んでいるわけだから、私って実は自分大好きなのかもしれない。同時にいろんな顔の自分を持つのが好きだ。ルールはひとつだけ。リアルクローズであること。

 15年前の雑誌を見ると、アメリカも日本も変わる気分に合わせて違うファッションを買って揃えよう!となっている。不景気といえど、今ほどじゃなかった時代だ。

 今はファストファッションで着回し、どんな場面でも使えるものを持とう、数は少なく、という時代である。

 私は圧倒的に前者が好き。だっていろんな顔を持つ自分でいたいじゃない!

 

 同時に、今は学生ファッションを楽しみたい。

 Amavelのセーラー服を堂々とこの年齢でも日常で着れるのは、学生という立場だからだ。

 今の立場である限り、ミニにパーカー、セーラーワンピースみたいな学生ファッションを楽しんでいたい。ロリィタももっと学校に着ていきたい。

 

 まあ、学生じゃなくなってもセーラー着ているかもしれないけど!学生の立場を脱したらミニにパーカーは卒業したいかな。

 あと今でも大人っぽい長いワンピースは、少し持とうかな。久々にハイヒールも合わせて。

 

 私はアメリカ女性ほど活動的には生きられない、日本人らしい引きこもりな人間だけど、外に出るときはリアルクローズで、思いっきり自由に歩きたい。

 

 そんな自由な服で七変化できる自分でいられたら、最高じゃない?

 

 

NYに帰りたい。